ローマ人への手紙 9:14ー29
礼拝メッセージ 2017.11.19 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神は、あわれみ深い主権者です(14〜18節)
神の正しさを信じることに葛藤を抱いていませんか
ローマ人への手紙の大きなテーマは「神の義」であると言われています。「神の義」は、信仰によって人間に与えられる義として理解されますが、第一の意味は、神が持っておられる義、すなわち神の正しさ、神が真実な方であるということです。この9章では、イスラエルは救われるのか、というテーマで話が進んでいますが、それが14節で「神に不正はあるのですか」、19節で「それなのになぜ、神は人を責められるのですか」と言う問いになっており、人間は、神を本当に信じていいのか、神は信仰をもって頼るべきお方と言えるのか、というすべての人に関わる根本問題に直結する内容になっています。
神が正しい方と言えるのか、というのは、たとえば、神が存在するならば、どうして悪いことや悲惨なことが起こるのか、と言って世を嘆き、神を信じることの意味に疑問を投げかける人たちの考えにもつながります。また、キリスト者の中にも、長くて苦しい試練にさらされ、神の真実や愛に疑念を持ち、信仰の葛藤を抱いている人たちの思いにも関係する問いです。聖書の素晴らしさは、こういう難しい疑問に対して、答えをごまかしたり、避けることなく、一定の答えを私たちに語ってくれていることです。14〜29節はすべての答えを示している訳ではありませんが、私たちそれぞれが自分の心と向き合いながら、これらの聖書の言葉に聞いていきたいと思います。
神の主権は、すべての人に及んでいます
神は不正なのか、という問いに対しての答えについて、まず、神があわれみ深い主権を持った方であることで、説明がされています。15節で「自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と宣言されています。この言葉は、エジプトを脱出し、約束の地に向かって行くモーセに主が語られた約束の言葉です。モーセはこれからの旅について心細くなったのでしょう。神に尋ねました。「私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう」(出エジプト33:16)。そこで、主が答えられた言葉が15節です。直訳すると「わたしがあわれむ者をわたしはあわれむ。わたしがいつくしむ者をわたしはいつくしむ」となります。モーセや民に対して、実にこの言葉で十分でした。神は、神以上のものにかけて誓うことがないので、「わたしが〜する」という、「わたし」という一語で十分であり、それ以上の言葉はないのです。
続いて、神の主権的なご支配ということを示すために、パウロは、エジプトの王パロへのみことばを引用します。「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」(17節)。神の主権や支配というのは、神がイスラエルや、教会だけを支配しているのではないことを明らかにしています。神を信じていない人々も、逆らっている者たちであってさえも、神の支配から誰も逃れることはできません。すべての人も歴史も、神の御手のうちにあるのです。そういう絶対的主権をもって、神は、「わたしはあなたをあわれむ」と仰せになります。「事は人間の願いや努力によるのではなく」(16節)とあるとおり、神が絶対的な権威をもって、あわれんでくださるのです。これは、以前説明しました、「不可抗的恵み」「絶対恩寵」につながっています。
2,神は、あわれみ深い創造者です(19〜29節)
創造者である神を、彫刻家、陶器師としてたとえる
しかし、神の主権ということを言うと、次に出て来る問いは、「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう」(19節)というものです。そこで答えられる内容は、神があわれみに富んだ創造者であるということです。天地を創造し、私たち人間や動物、自然などのすべての被造物を生み出したのは、真の神なのです。パウロはそのことを、陶器師などのたとえを用いてさらに説明します。
20節で「形造られた者が形造った者に対して」は、「彫刻の像が制作者に対して」(田川建三訳著「新約聖書」作品社)と訳せますから、そのイメージでいくと「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と彫刻の像が、深夜の博物館で声を出している。映画「ナイトミュージアム」みたいですが、そんなことは現実にはあり得ませんし、造られた物体のほうが、造った人間に対して抗議することは到底考えらないことです。このように、私たちが創造者であられる神に対して、当然のように抗議することは、そもそも根本から間違っていると、パウロは語っているのです。
怒りの器、あわれみの器である私たち
陶器師の話の中で、注目しておきたい言葉は「怒りの器」と「あわれみの器」という表現です。この陶器師のたとえから、続く24節からのホセア書とイザヤ書の引用に至るまで、聖書が明らかにしているメッセージは、神は創造主、すべてのものを造られた神であられるが、それは気の短い陶器師でも、気まぐれで仕事をする陶芸家でもなく、作った器に愛情を注いで、忍耐するという、あわれみ深い陶器師、創造者であるということです。「もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。…神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです」(22〜23節)とあるとおりです。人間はみな「怒りの器」あるいは「あわれみの器」です。20節で「人よ。…あなたはいったい何ですか」とは、人間であるあなたはいかなるものであるのか、自分自身をよく見なさい、ということでしょう。1章18〜32節のとおり、不義、悪、欲望で満たされ、その思いは頑なで、虚しい心で偶像礼拝者という人間の罪の現実は、認めざるを得ません。人間はみな、「滅ぼされるべき怒りの器」でしかありません。そのことを踏まえた上で、この9章は、あなたがた異邦人たちを、そしてイスラエルの残りの者たちを、神は「あわれみの器」として選んでいてくださる恵みが記されています。「あわれみの器」としての信仰的自覚を持つことが、私たちを神との正しい関係に導いてくれるのです。