「神の選びのご計画①」

ローマ人への手紙 9:6ー13

礼拝メッセージ 2017.11.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イスラエルを真にイスラエルとしているものは何でしょうか?

原点に立ち帰って確認する

 今日の箇所、6〜13節の中には、6人の人物の名前が出てきます。「アブラハム」「サラ」「リベカ」「イサク」「ヤコブ」「エサウ」です。旧約聖書の創世記を読むと、これらの人たちがどういう者で、どんな出来事があったのかがわかります。なぜ、パウロは創世記まで戻って説明しているのか、と言うと、彼の心の中にあった重荷、イスラエル民族の救いのことを考えるために、原点に立ち帰る必要を感じたからです。パウロは、この書において、すべての人にとって福音が必要であることを語り、説明をして来ました。これまで、神が創造主であり、人間はその創造主に背を向け、罪を犯し堕落し、失われた存在となってしまったことや、神が与えられた律法の役割についてなど、さまざまなテーマとの関連から、福音の真髄を語って来ました。そしてこの9章から、やはりどうしても語らなくてはならない、イスラエルとの関係から、福音の本質を明らかにしていきます。

ヤコブはなぜイスラエルとなったのか?

 彼らの父祖イスラエルは、元々、ヤコブという名前でした。彼はイサクとリベカとの間に生まれた双子の一人です。もう一人のほうが兄で、エサウという名前でした。家督相続のような感じでしょうか、「長子の権利」という神からの祝福を、弟ヤコブは父を騙して兄エサウから奪い取り、逃亡の末、伯父ラバンのもとで生活します。いくらかの歳月の後、生まれ故郷に帰るようにと神からお告げを受け、ヤコブはそれまでに与えられた家族を引き連れて戻るのですが、その途中、ひどい別れ方をした兄のエサウと再会しなければならないことになります。
 恨まれている兄との出会いを前に、夜明け前まで御使いと格闘し、そこで「イスラエル」という名前を受けました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)。言葉の意味は、「神と戦う」と説明されています。ヤコブが格闘したその姿は、自分のこれまでの歩みの振り返りがあったことでしょうし、自らの罪を深く知ることになったと思います。ベテルの出来事でもそうでしたが、ヤコブは心細さや、魂の苦闘の中で、神に向かって行きました。神の御目の中に自分がいることを悟り、神と格闘するようにして、生きたのです。このような神にぶつかっていくような信仰の姿勢こそ、イスラエルの特徴なのです。

神に求め、神に結びついて生きようとしているか

 律法を授けられている、割礼を受けている、神に特別選ばれている存在であるとの信仰的エリート意識だけで、他の人たちを見下し、真のメシアであるイエスに心を閉じていた、当時の多くのイスラエルは、真のイスラエルになっていないとパウロは指摘しているのです。パウロの願いは、イスラエルが真のイスラエルとなり、悔い改めて、イエスを主としていくことでした。
 イスラエルを真にイスラエルとするものは、正しい信仰であることは間違いのないことです。この箇所を見つつ、キリスト者を、真にキリスト者とするものは何かと考えました。先祖との結びつきや、血統、あるいは文化的習慣が、私たちをキリスト者とする訳ではありません。クリスチャンの血が流れているからといって、キリスト者であるとは言えないのです。最も大事なことは、血筋でも、家系でも、生まれた環境でもありません。天地の創造主である神を知り、この方が遣わされた全人類の救い主、王であるキリストに信頼と従順をもって、生きるかどうかなのです。何事も神に向かい、神に求め、神に結びついていくのです。


2,神がイスラエルを選ばれたということは、どういうことなのでしょうか?

神の主権的選び

 神が、ご自分の思いから、ヤコブを選び、愛されたのでした。選ばれなかったエサウは可哀想ではないか、と反論がありそうですが、これを説明することは容易ではありません。選びということを考えると、必ず、選ばれる人と選ばれない人がいることになります。もし全部を選んでいるというのであれば、それは選んでいることにはなりません。
 しかし、聖書でこの「選び」、神学的には「予定説」と云いますが、こういうことに関して記している所を読んでいくとわかることは、単純に、誰かを選んで誰かを選ばない、誰かを救い、誰かを滅ぼす、ということを人間の頭で二者択一するような感覚で読めないことに気づきます。どちらかと言うと、選ぶ方に強調があり、選ばないほうがあることが明確には書かれていないように私には思えます。理屈上、選ばれる人がいれば、選ばれない人がいるわけで、どうしてもそういう議論を、人間の頭の中では、してしまいがちです。

ヤコブを愛する神

 そこで、パウロが引用したのが、創世記ではなく、マラキ書であることと、「愛する」という表現が使われていることに注目すべきであると私は思います。皆さんも、今、誰かを愛したり、誰かに愛されていると思います。特に、なんとなく好きであるというのではなく、必死にその人を大切にしたい、守りたいと思えるような愛です。考えてみると、愛は、特定の対象だけに注がれるものです。恋愛関係や夫婦関係、親子関係でもそういうことが言えると思います。愛というのは、「他のだれでもなく、あなた」をという点が、本当の愛なのです。みんなを愛しています、そしてあなたもそのうちの一人として愛していますというのは、本当に愛されているとは、感じられないのです。
 ヨハネの福音書を見ると、著者のヨハネ自身が自分のことを「イエスが愛された弟子」と何度も記しています(ヨハネ13:23,19:26,20:2,21:7、20)。それは、他の弟子たちよりも、自分が主から愛されているという、ひとりよがりな思い込みだったわけではなく、主の愛を受けた者が示す、信仰の健全な感覚であると言えるでしょう。私たちが言えることは、私は、神から特に愛されている、愛されて救われている、愛されて選ばれている」そこまでなのです。私が愛されているということは、他の誰かは愛されていない、あるいは選ばれていない、滅びに定められている、と判断することは行き過ぎなのです。