ヘブル人への手紙 12:4ー11
礼拝メッセージ 2025.11.2 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,苦難が神の訓練であるという逆転の発想
世の見方と逆である信仰の道
会社員だった時、社員旅行で日本三景の天橋立に行きました。有名な「股のぞき」をしました。股の間から除いた景色は、天と地が逆転し、空が海に海が空のように見え、まるで松並木が天と地を繋いでいるように感じました。おかしな比喩ですが、私は信仰によって生きる道とは、この「股のぞき」をして世界を見るようなことだと思います。それは逆転の発想というか、人の思いや想像を遥かに超えるものです。
たとえば、救いについて考えると、人が成長発展して、いつか人間が神のように万能になることが救いとなり、幸福へと至る道であると多くの人が考えているように思います。ところが、神がされたことはその逆です。神が人となり、私たちは救われました。また、キリストは何の罪もないのに被告席に立たされ、人によって裁かれ、十字架の刑を受けられました。しかし、神はキリストをこの世界の裁き主として定められ、時が来れば、すべての人は彼によって裁かれるのです。
今回の聖書箇所では、ふつうは不幸や災いでしかないように見える苦難を神からの訓練であると語っています。迫害によって苦しんでいた当時の読者たちに、そのように述べているのです。彼らは「キリストを信じて救われ、神の前に正しく歩もうとしているのに、なぜ苦しまなくてはならないのか」と疑問に思っていたことでしょう。現代の私たちが彼らと同じような迫害にあっていないとしても、「神様を信じて、まじめに生きようと努めているのに、どうしてこんな苦しみが襲ってくるのか」と疑問に思ったり、さらに、信じることに意味や価値を見い出せず、そうした信仰の懐疑にとらわれてしまうことがあるかもしれません。
試練が訓練との理解で気をつけたいこと
しかし、著者は言います。「キリストを信じているあなたがたにとっての苦難は神の訓練である」と。苦しみほど、私たちをマイナスな気持ちにさせるものはないのに、聖書は信仰をもって生きるあなたがたにとって、それは訓練と見ることができ、神はあなたを鍛錬して「義という平安の実を結ばせ」るもの(11節)になるのだ、と言っています。
ただし、この「試練は訓練」という理解は、苦難の渦中にいる人自身が信仰をもってそのように受け止めたときにのみ、意味あるものとなることを忘れないでください。苦しんでいる人を外側から見て、他人である私たちが、その人に向かって、これはきっと神の訓練であると告げることは、信仰についての誤解を生み、躓きを与えることになりかねません。苦しんでいる人が信仰者であったとしても同様です。
さらに、これも大切なことなので付け加えますと、戦争や大災害、人間の悪がもたらした悲惨極まりないことについて、それらすべてを「神の訓練」と性急に判断することは避けなければなりません。神に敵対する破壊的な悪の力はこの世界に現に存在しているし、働いてもいます。ある神学者はそれを「虚無的なもの」と呼びましたが、そういう決して善とはならず、どうあっても肯定などできるはずのないものがあることは事実なのです。もちろん、キリストはそれらすべての悪魔のわざを打ち壊し、完全に勝利されているのです。
2,神の訓練を受けていることが神の子である証明
神との親子関係
著者は、箴言3章11節から12節を中心に教えています。「わが子よ。主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。」(5節)。5節から11節において、主の訓練であるとの説明で中心となる比喩は、親子関係です。神が父であり、信仰者である私たちは、その息子、娘であるということです。ですから、5節の「訓練」と訳されたことばは、新改訳の欄外注で、あるいは「懲らしめ」「しつけ」とも訳せると書いています。現代社会において、子どもへの「懲らしめ」や「しつけ」に関してのことは、非常にデリケートな問題となっています。しかし、時代や文化は変化していても、親子関係において最も重要なことは、昔も今も変わらず、それは「信頼」であり、「愛」なのです。
試練の中で神の愛を見る
神様が父親であると考えると、苦難の中にあっても、見えない愛を受け取れることになります。6節に「主は愛する者を訓練し…」とあるとおりです。しかし、そこにもし神様と親子の絆、信頼ということがなければ、それは訓練とはならず、単なる不運としか受け取れません。大胆にも、ヘブル書の著者は苦難という訓練を受けていることこそが、私たちが神の子であることの証明であると語っています。「訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。」(7〜8節)。
3,神の訓練によって現れる結果と目的
訓練を施したり、厳しく接すること、特に鞭を加えるような懲罰的行動は、親としてもとてもつらいことです。鞭をふるうことはそれを受けている子どもよりも親のほうが痛みを感じるものです。神様も同じです。私たちの試練を笑いながら眺めているわけではなく、私たちが苦しむ時、主も同じように苦しんでおられるのです(イザヤ63:9)。それが親としてなされる懲らしめの本質であり、子への訓練というものです。ですから、逆を言えば、苦しみにあっていないことは幸いなことではないし、神の子とされていないことになってしまうとヘブル書は記しています(8節)。ある高名な説教者が書いていたことですが、神を無視する不信仰者が人生において順調で、繁栄し、健康で、人気があり、人々に称賛されようとも、それは羨むべきことではなく、むしろ憐れむべきなのである、と言います。
訓練には明確な目的やゴールがあります。それが10節と11節に書かれています。「霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして…」(10節)、「…後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」(11節)。神は、ご自分の願われる人格へと私たちを成長させるため、訓練してくださるのです。パウロも同じことを書いています。「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す…」(ローマ5:3〜4)。詩篇作者も同じです。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)。ヘブル書5章では、キリストも同様だったと記します(同5:8〜9)。ですから、私たちは「主に叱られて気落ちしてはならず、絶えず、主イエスから目を離さずに走り続けるのです。
