「神の言葉が教会を建て上げる②」

コリント人への手紙 第一 14:26ー40

礼拝メッセージ 2016.11.13 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,御霊によって与えられた賜物を通して、教会は建て上げられていきます

問題や課題は生きている証拠でもある

 この手紙を読むと、初代教会の礼拝の雰囲気が垣間見える気がします。確かに、混乱があり、争いがいくらかあったようですが、別の視点で見ると、かえって各々の熱気のような、熱い精神がそこには存在していたように見えます。26節を見ると、礼拝者の中から御霊の促しを感じ取って立ち上がり、賛美、教え、黙示、異言、解き明かしが次々となされ、自由で力強い礼拝が捧げられていたようです。ですが明らかにそこには混乱が存在し、幾人かが同時に預言して、収拾のつかない感じでした。
 このような混乱にパウロが苦言を呈しているところだけを見て、コリント教会の欠点ばかりに目が留まりがちですが、賜物の意味や本質を教える12章を見ると、この生き生きとした礼拝や教会のあり方は、現代の私たちが見落としてはならないことだと気づきます。反対の側から見れば、コリント教会は種々の課題を抱えていたことによって、教会として生きていることを示していたと言えるかもしれません。死んだグループには何の問題も起こらないからです。「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(箴言14:4)とありますように、問題があることは生きている証しでもあるのです。

御霊の現れを期待した教会の礼拝や活動

 12:4〜11を見ると、「みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、」(7〜8節)とあり、「同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」(11節)と記されています。「御霊の現れ」「御霊がこれらすべてのことをなさる」とあるように、私たちの礼拝も教会の働きも御霊の現れを期待し、御霊がすべてのことをなさるとの思いを堅持しつつ、努めていきたいと願います。形式だけにとらわれたり、人の考えに縛られて、御霊の自由な働きを妨げないように注意していきたいと思います。自由とコントロールのバランスが健全性のカギです。


2,平和の神が秩序をもって、教会を建て上げていかれます

建て上げることを目標とする

 御霊の自由な働きを踏まえた上で、次にパウロの語る「順番に」「適切に」「秩序をもって」という点を学びましょう。26節「すべてのことを徳を高めるためにしなさい」は、直訳すると「全ての事々が建て上げのためになるようにせよ」となり、この「建て上げのため」あるいは造り上げることが、パウロが一貫してコリント教会に語って来ている目標です。しかし、教会を建て上げることは、人間の人生と同じで、生きている限り、建て上げていく働きには終わりがありません。成長し続けなければならないのです。パウロもガラテヤ人への手紙で書いたように、コリント教会を産み出すような気持ちで、この教会の建て上げのために祈り、労し、指導していたのです。「私の子どもたちよ。 あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、 私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(ガラテヤ4:19)。

礼拝しているお方は天地創造の神

 コリント教会の礼拝の混乱を聞いて、パウロは、彼らが礼拝しているお方にしっかりと目を向けるように語っています。神は、天と地を創造されたお方です。実にこの14章後半は、パウロが創造ということを念頭に置いて記したのではないかと、私は思っています。33節を見ると「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」と語り、40節では「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい」と、混沌から秩序へと創造していかれた神を前提として、彼らを戒めているように思うからです。
 創世記1章2〜3節では、「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」の「茫漠として何もなかった」(ヘブライ語;トーフー・ワ・ボーフー)は、「混沌」と訳している聖書もあります(新共同訳)。パウロが「神は混乱の神ではなく」というとき、創造主である神を礼拝するのに、無秩序や混乱はふさわしくないことを命じたのです。しかも、創造の記事にあるように、「神の霊が…動いて」おられたことが記されています。創造にあたって、御霊のお働きがなされていたのです。教会を造り上げるのも、御霊の現れとお働きがなくてはなりません。また、40節で「適切に」と訳されている単語も、原意は「形が良い」であり、混沌から秩序ある美しいあり方へとその状態を改革するように、パウロは求めているのです。
 その視点で見れば、この箇所の最も難解な、女性たちへの沈黙命令(34−35節)もある程度理解が可能であると思います。一見パウロが女性蔑視発言をしているかに見えますが、コリント教会の個別問題として、当時の社会的習慣を無視した女性たちの目に余る振る舞いが教会の中でなされていたことが想像できます。11:5の「女が祈りや預言をするとき」と女性が語ることを肯定している言葉も合わせて考えると、14章の言葉の意味は、無秩序に混乱を招くようなかたちでされている女性たちの教会の中での預言行動に対して、慎むように命じたのではないでしょうか。

沈黙にも意味がある

 しかも、この「黙っていなさい」(34節)は、異言の場合(28節)にも全く同じように言われていて、表面的に受ける印象ほど、マイナスな言葉ではないのかもしれません。むしろ、「沈黙せよ」ということ、神の言葉を静かに聞き静まりなさい、とのニュアンスが含まれているという学者もいます。語ることと、沈黙することの両面が、正しい礼拝を形造り、健全な教会を造り上げていくというように理解してもよいと思います。ドイツの医師で思想家であったマックス・ピカートが著書「沈黙の世界」(みすず書房)で、「もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉の深さを失ってしまう」「愛のなかには言葉よりも多くの沈黙がある。黙って!あなたの言葉が聞こえるように」と書いています。
 神の御霊の働きを思い、混沌から秩序へと平和を生み出す神を覚えて、私たちも自分を建て上げ、家庭を建て上げ、教会を建て上げ、社会を建て上げることにあずかっていきたいと願います。