「神の約束による相続人」

ガラテヤ人への手紙 3:16ー4:7

礼拝メッセージ 2022.8.14 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,あなたがたは、神の子どもです(3:26〜29)

キリストにある真実を通して(26節)

 26節「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです」と始まるこの29節までの一つ一つの宣言は、このガラテヤ人への手紙のみならず、聖書全体が語るとても重要な主題であることは明らかです。キリスト者である私たち、あるいは神を求め信じて歩んでいる誰もが持つべきアイデンティティーとは、「私たちは神の子どもである」と言い表すことができます。ユダヤ主義、律法主義者たちの惑わしに揺れていたガラテヤの諸教会に向かって、パウロは声高に彼らに向かって叫んでいます。「あなたがたはみな神の子どもです。そのことを絶対に忘れないでください」と。
 ここの「信仰」ということばは、前のところ23節から25節で記されていた「信仰」との繋がりで理解する必要があります。23節では「信仰が現れる前」とあり、25節では「信仰が現れたので」と書いていました。信仰が来たり、現れたりすると表現されていることからわかるように、これは私たちが信じるという信仰というよりも、父なる神に対してキリストがなしてくださった真実や忠実さを示していると、考えたほうが理解しやすいと思います。つまり、パウロがここで強調していることは、私たちの信仰ということではなく、「キリストに集中してください」ということなのです。私たちはキリストにあってこそ、神の子どもであるということ、ユダヤ人のように律法を守り行うかどうかが、私たちを神の子どもにする訳ではないということです。

バプテスマを受け、キリストを着ました(27節)

 そこでパウロは27節で、あなたがたは「キリストにつくバプテスマを受けた」のではないですか、と彼らの信仰の出発点を問うて、初心に立ち帰らせようとしています。バプテスマ(洗礼)は、イエスを主なるキリストとして信じ、このお方によって罪の贖いを受けたと公に告白して受ける聖礼典であり、私たちの教会がこれまでしてきているとおり、洗礼志願者は初代教会の時代から、原則、式の中で全身を水の中に浸されたのです。紀元2世紀頃の礼拝マニュアルによると、当時、洗礼式は、イースターの早朝「鶏のなく頃」に行われ、流れる水を使って受洗者は全裸で洗礼を受けていたようです。順番は男子が先に受け、続いて女子が受けていたようです。入信者は凍えるような冷たい水の中で洗礼を受け、その水の中から上ったあと、準備された専用の着物を着せられたそうです。まさに「キリストを着る」ような行為が、古代の洗礼式の中にはあったということです。パウロが「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(2:20)と言ったとおり、この書の当時の読者も、そして今日の私たちもキリストという方を着て生きており、もはや私が生きているのではないと、確信して歩みましょう。

キリストにあって一つです(28〜29節)

 これまで、キリストにあって神の子どもであること、そしてキリストへとバプテスマされ、キリストを着ていると語られて来ましたが、さらに聖書は、私たちは主にあって「一つとされている」と書かれています。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(28節)。
これはキリストにあるという究極の一点を除いては、「わたしたちはすべて一つなのである」という力強い言明です。キリストにあっては、どんな垣根もない、隔ても、差別もない、というこの真理を強調するために、26節から28節では「あなたがたはみな」と言うことばが三度も繰り返されています。人を分ける当時の一般的なカテゴリーだと思われる、国や人種の違い、立場や貧富の差、男性と女性という性別が、「〜もなく」ということばによって、すべて取り払われていることを明らかにします。
 ガラテヤの教会の人々は「自分たちは救われるために、あるいはもっと信仰の高い次元に進むために、ユダヤ人のようにならなくてはならない、割礼を受けなくてはならない」と考えていました。「いや、そうではない。あなたがたはユダヤ人になる必要などない。あなたがたがキリストに結ばれているなら、ユダヤ人もギリシア人もなく、私たちキリストにあるものは神によってすでに一つとされているのだ」とここに言われています。


2,あなたがたは、神による相続人です(4:1〜7)

子どもであるうちは奴隷と変わらない(1〜3節)

 1節から3節のことは、過去のいろいろな小説家などによって書かれた、寄る辺のない孤児の主人公が悪意ある人々からの酷い仕打ちを受けるなどの数々の試練を通った後、突然、彼に莫大な遺産が贈られることが明らかになって、ハッピーエンドを迎えるというような筋書きを思い出させる内容です。全財産の持ち主、やがてその資産を相続することが決まっていても、「定められた日までは」奴隷と少しも変わらない扱いを受け、苦しい境遇で生活をしなくてはならなかったというイメージです。しかし、「父が定めた日」が来ると、あるいはその「時が満ちて」、状況は一変します。奴隷のように見えていたが、実は奴隷ではなく、相続人であったことが明らかにされるのです。ペテロは、「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。」(Ⅰペテロ1:4)と記していますが、神の子どもとされているということは、あらゆる想像を超える素晴らしい恵みなのです。
 私たちの主であるお方が、人として肉体をとってこの世界に来られ、しかも律法の下にお生まれくださったのです。十字架とご復活によってイエスがキリストであることが明らかにされたとき、ユダヤ人も異邦人もなく、すべてキリストにある人々が、神の子ども、神による相続者となることが起こったのです。それゆえに、律法に逆戻りすること、あるいは異邦人のガラテヤの人々の心をかつて支配していた「もろもろの霊」にとらわれて、生きる必要はもうなくなったのです。そして、神による莫大な霊的資産を相続できる身分にある者として、自由に生きることが可能となりました。

神の子どもであることの経験(4〜7節)

 ここでこのような神の子どもとして生きることのできることを頭だけの理解にするのではなく、だれもが日々味わうことのできる経験として、パウロは「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」(6節)ことを示しています。主イエスご自身は、父なる神様に向かって、『アバ、父よ』と祈っておられました(参照;マルコ14:36)。「アバ」とは、子どもが自分の父親に向かって呼びかけることばです。「父さん」、英語で「ダディー」でしょうか。神という存在が、そんなに親しいものとなり、主イエスがそうであったように、愛し愛される親子の関係として認識できるようになる、とパウロは教えているのです。