コリント人への手紙 第一 3:16ー23
礼拝メッセージ 2016.4.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,あなたがたは神の神殿です(16−20節)
これまでこの書は神の知恵と人間の知恵との対比をもって語られてきましたが、その締めくくりがこの16−23節です。神の知恵ということを思うごとに、次のみことばを実感します。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。」(ローマ11:33)。神の知恵の底知れず深いことを知れば知るほど、自分が何も知らないことに気づきます。ソクラテスの言う「無知の知」と同じです。後の箇所でもこう言われています。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(8:2)。
今日の聖書箇所に「あなたがたは知らないのですか」(16節)と、パウロはコリントの人たちに語りかけています。この「知らないのですか」はこの書でも何回か出てくる表現です。「あなたがたは、 ほんのわずかのパン種が、 粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。」(5:6)、「あなたがたは、 聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。」(6:2)など。
この繰り返される「知らないのですか」は、こんなこともわからないのですか、というような皮肉ではないと思います。むしろ、あなたがたは知っているはず、だからわかってくれるだろう、という期待を込めた、愛のある投げかけだと思います。そうでなければ、こんなに長い手紙を書いたりしなかったでしょう。パウロは神に信頼していることはもちろんですが、神の教会である信仰者の群れにも主にあって期待と希望を抱いていました。ですから、ここでユダヤ人が最も大切にしていた建物である神殿を、このコリントの教会に当てはめて語っているのです。確かに、あなたがたの群れの中に、そして一人一人には、いろいろと課題がある。深刻な問題に直面しているかもしれない。けれども、よく覚えておきなさい。神の目には、あなたがたは聖なる神の神殿です、と明言しています。
神殿は、聖なる神の臨在を経験する場所でした。そしてそこで、人は神と出会うことができ、神との交わりを得られる、すばらしい礼拝の場所でした。「神の御霊が宿っておられる」と表すことで、神殿の最も重要な本質を明らかにしています。神殿は神の御霊が住んでおられるところです。別の表現をすれば、神の家です。今日の箇所も二つの視点でみことばを見るとよいでしょう。一つは教会としての視点、もう一つは個人としての視点です。個人としての視点については、6:19に「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」と書いてあります。大切な存在として、聖く保ちましょうと語られています。
また教会としての視点で見れば、神の神殿としての恵みは、この教会の中にこそ、御霊が宿り、臨在されているということです。神の御霊が臨在されると何が起こるのでしょうか。それは、私たちに、いのち、力、導きが与えられ、さらに信仰の一致と賜物が与えられるのです。だから、現状において、教会がどう見えていたとしても、パウロは、あなたがたは神の神殿であると語って、群れの建て直しと成長を期待することができたのです。そして、神の神殿である私たち一人一人も、同様に神の御霊の御業を期待して良いのです。
2,あなたがたは神のものです(21−23節)
21節に「すべては、あなたがたのものです」と驚くようなことが記されています。子どものとき、あなたのものは私のもの、私のものは私のもの、と言って、お菓子でも玩具でも何でも独り占めにしてしまう人はいませんでしたか。全部、自分のものにしたいと、子どもも大人も、そんな実現できない願望を抱きます。不思議にもそれを後押しするように見える言葉です。しかしこれは、神が必要と思うすべてを与えてくださる、善なる(goodness)お方であることを明らかにしています。目に見えるものも、見えないものも、神は恵みをもって与えてくださいます。でも、それは人の働きを無駄なものとはせず、むしろ私たちの努力を用いて、与えたり、実現させてくださるということです。神はいろいろなものを私たちのために備えて、与えようとしておられるのですが、それに対して人はしばしば、これもない、あれもないと不平を語り、努力する前にあきらめてしまい、どうせ無理と思い込んで怒り、不安を抱えて、うずくまってしまいやすいのです。でも、みことばは言います。「すべてあなたがたのものです」と。また、こうも記されています。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7、参照マタイ7:7)。しかし、それを自分のためだけに求める考えしかなければ、自己願望の充足に終わってしまいます。何のために、誰のために、ということが必ず問われるし、それが根底になくてはならないのです。
続く22節から23節は、礼拝の最初と最後に歌われる讃美歌のような表現です。ここに究極のゴールが明らかにされています。私たち教会は、誰のために存在するのか。私たち一人一人は誰のものであるのか。「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです」(23節)が実にその終着点です。私自身はキリストのもの、神のもの、あるいは教会も神のものであるとする理解は、宇宙的で広大な視野へと私たちを導きます。その見方はもはや自分(家庭、会社、教会等)に縛られることから、私たちを解放してくれます。それはすべてを放棄したり、無責任になるという意味ではなく、人間的な執着や固執から、神への明け渡しに至る自由への道です。「私のもの」ではなく、すべては「神のもの」です。内村鑑三の言葉「余は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、キリストは神のため也」は、おそらくここから来ているのでしょう。