ローマ人への手紙 2:1ー16
礼拝メッセージ 2017.4.9 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神のさばきがあることを知っていますか(1−5節)
ああ、人よ、さばく者よ!
2章から、神のさばきのことが中心となって、福音が語られているのですが、現代の私たちにとって、神のさばきをどう理解すればよいのでしょうか。たぶん、信仰のことを知らない人たちであれば、神のさばきと聞いても、過去の迷信として取り合わないか、民衆を黙って従わせるための、宗教を笠に着た権力者の脅しであったと考えるかもしれません。
でも、よく読むと、聖書そのものの中に、パウロの言葉の中に、理解のヒントが隠されているように思います。彼が、神のさばきを語るにあたって、読者に注目させる点はと言えば、「人」です。人を見よ、あなた自身を見よ、と彼は言います。神のさばきを信じない人も、信じている人も、人間は皆、他の人をさばいていると言うのです。
1節と3節に、原文に近づけて言葉を並べると、「ああ、人よ、さばく者」という言葉が二回繰り返されています。人間は皆、他人をさばくという性質を持っているのです。現実社会を見ても、試験とか、評価とか、そのようなことで、人を判断したり、区別して動いています。ある学校に誰を入れるかとなると、試験をする訳です。試験とは、ある種のさばきであり、判断です。人が人をさばいているのです。また、私たちが他人を見るときにも、いろいろな評価をその人に下していることがよくあります。そして、もちろん聖書が語っているさばきは、特に、その人が善であるか、悪であるか、ということでしょう。いろいろな映画やドラマで、悪が正義によってさばかれる、正しい人が良い報いを受け、悪者が罰せられるという話は、本当にたくさんあります。そういうものを見て、たいてい人は、善を行い、悪を罰してくれるヒーローの活躍に拍手をおくりたくなるし、最終的に悪人が懲らしめられて、ああ良かったと思うでしょう。
人間の中の、善は報われ、不正は正されなければならない、という判断やさばきの思いは、創造主の御思いを反映しています。また、正しい審判がなされることへの願望は、義なる神が人間の心の奥に刻んだ、内なる小さき声と考えることができるでしょう。15節の「律法の命じる行いが彼らの心に書かれている」というのも、そういうことでしょう。
神のさばきを自分だけが免れると思っているのですか
ただ、パウロがここで問題にしている話の中心は、人は皆、さばく方の側に立っていると、勘違いをしているという指摘です。あの人はさばかれ、罰を受けるべきだと心から思う一方で、自分がさばかれる側であるとは夢にも思っていません。1節にあるとおりです。「すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです」。また、1〜5節で一番多く繰り返されている言葉は「あなた」という表現です。「あなた」もさばかれるのですと書いています。
そこで二つの思い違いが指摘されます。一つは「あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。」であり、もう一つは「(神の)豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」です。自分だけを例外にするという訳です。どこかで自分だけは弁解の余地があると思い込んでいるのです。しかし神のさばきを逃れることのできる人はだれもいないのです。したがって私たちは、だれであっても謙遜であるべきです。自分が裁判官の席にいると思わないように、また自分が被害者の立場で訴える側にいると思わないように、注意したいと思います。私たち人間は皆、神の前に、被告席に立っている存在なのです。
2,神のさばきは完全に正しいことを知っていますか(6−15節)
6節で「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。」と言う言葉をどんなふうに受け止められるでしょうか。神のさばきが、ひとりひとりに必ずある、というのは、確かに恐ろしいことですが、私にとって、また世界の多くの人々にとって、これこそ真の希望の光ではないかと思います。なぜなら、私たち人間の行うさばきや判断は、全部が間違っていないにせよ、やはり不完全です。正しいさばきが行われていると言えません。世界のどこを見ても、残念ながら不義や不正がまかり通っているような状況や出来事をよく見ます。だれかが、この世界のすべてにおいて、正しい判断を下し、悪を打ち負かし、あらゆる不義や過ちを正し、正義を行って欲しいと皆が切望しています。そして神はそれを必ず成し遂げてくださると、断言してくれています。神は正しいお方として、公正なさばきをなさいます。7節と8節、9節と10節とは、善を行った人と、悪を行った人の結末が、それぞれの対比を通して、明確にされています。11節から「律法」のことが持ち出されているのは、さばきという言葉を聞いても、自分はだいじょうぶだと、ユダヤ民族であることに安んじている人がいたからで、それは間違いですとパウロは警告しています。あるいは異邦人は、ユダヤ人だけが救いの特権的扱い受けていると考えているならば、そんなことはないと教えています。神は、民族の差別、もちろん、これ以外の違いに関しても、すべてにおいて、えこひいきをなさることはありません。ここに神が義なるお方であること、神の公正さが強調されています。
3,神のさばきは福音の中に表れていることを知っていますか(16節)
16節で「私の福音」と、突如「福音」の語が出て来ます。神のさばきと福音とはまったく反対の言葉のようにさえ見られがちですが、決してそうではないことが、この16節で明らかにされます。「キリスト・イエス」の御名も出て来て、それを明らかにします。私たちがキリストの十字架を仰ぐ時、そこに見るのは究極的には神の愛ですが、なぜ十字架に架からなくてはならなかったのかを考えれば、そこに神のさばき、神の正しさを見るのです。神が正しいお方で、罪を必ずさばかれることを、十字架のうちに見ることができます。そして、その正しさが全面的に明示されるときこそ、キリストの再臨のときです。神のさばきは、主の十字架と復活の中に先取りされて、表わされているのです。