ヨハネ福音書 9:1-12
礼拝メッセージ 2016.8.14 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
目の不自由な男性をめぐって
ヨハネ福音書9章は弟子の視点から見たイエスを描いていますが、その冒頭にはイエスと目の不自由な男性との出会いが記されています。まず弟子たちが、この男性が視力を失った原因について問います。人が不幸を背負うときに、その原因を本人も家族も他人も探そうとすることがあります。その不幸を罰として捉えることで、ある種の納得をしようとするのです。そこで誰かを責めたり、あるいは厄払いのようなことをしたりするのですが、そのように不幸を理解することで、苦しむ人をさらに不幸に陥れることになります。イエスの返答は、この目の見えない人の状況を本人や両親(家族)の責任にはしません。そうではなく、神の業が現われるためであると言います。このイエスの言葉は、実は誤解されかねません。後ほど、この点を考えてみます。
人々の論争
この奇跡の後、イエス自身は物語には登場しません。代わって、この癒された男性をめぐって物語が進んでいきます。まず、人々の前に現われたこの癒された男性が、目が見えず物乞いをしていたあの男性と同一人物かどうかで人々の間に論争が起きます。それは、目が見えるという奇跡が本当に起きたかどうかという論争です。問題の決着のために、この男性に起きたことを自己証言させ、そこで初めてイエスの名前がこの男性の口から告げられます。しかし、目が見えなかったこの男性はイエスの名は知っていますが、一体どのような人物であるのかは2つの点で分かっていません。1つは、癒しの時点で見えていなかったのでイエスの外見や風貌が分からないこと。1つは、このイエスが何者なのか、という大切な部分です。ヨハネ9章は後者についての論争へとつながっていきます。
神の業が現れるため
イエスの言葉「神の業が現れる」に帰って行きたいと思います。この言葉を、この目の不自由な人がイエスと出会い、その癒しを経験するために神によって目が不自由になったと理解するならば、それではイエスの言葉は弟子と同じになってしまいます。弟子たちは罪の罰として目が不自由になったと言い、イエスは神の業のためであるという違いはありますが、このような考え方では本人の苦しみに共感しようとする努力は何ら見当たりません。ただ自分の解釈(あるいは意味付け)に自己満足しているだけです。イエスはそのような態度に対して否と言っているのです。
神の業とは神が行うことです。それは、この9章の記事にあるように、奇跡であるかも知れません。あるいは奇跡でないかも知れません。問題はそのような業の内容ではないのです。神はイエスを通して奇跡を起こすことができますが、イエスの反対者たちはそのイエスの奇跡を悪霊の仕業であると非難しました。同じ出来事を見ても、ある者は神の業と認め、ある者は悪霊の仕業とします。それよりも私たちにとって重要なのは、業が何を目指して行われているのか、その見極めでしょう。苦しみ神の業である救いを必要としている人のために行われているか、あるいは神の業を行っている人やその人をめぐる人々の利益(お金、名誉、自尊心など)のために行っているのか、これは微妙な問題ですが、大切なことです。なぜならば、神の業を経験した人の行く末を決めかないからです。
「神の業が現れる」という言葉を、イエスがこの目の不自由な人のために業を行うという意思表示として理解しておきたいと思います。神は苦しむ人を救い出します。それは神の自己満足でも宣伝でもありません。神の目がその人自身に向いているからです。神の業とは、そのような苦しみからの解放という神の視点からの業なのです。