マルコの福音書 7:1ー23
礼拝メッセージ 2021.2.28 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,汚れた手でパンを食べることの何が問題なのか
5節「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか」。パリサイ人たちと律法学者たちによって発せられたこのイエスへの問いかけが、本日の聖書箇所の話の発端です。その「汚れた手」の問いが広がって行って、汚れた手で食べることによって、あるいは外側からあなたの口から入る物があなたを汚すのではないのだ、むしろあなたを汚すことになるのは、あなたの内側から出て来るものだと、イエスは仰ったのです。この箇所の難しさの一つに「汚れ」の問題があります。これは今日の社会ではあまり意識されなくなった宗教的「きよめ」、あるいは信仰的事柄としてのきよさを守ることについてなのです。律法を守るという意味において、パリサイ人たちが「あなたの弟子たちは…汚れた手でパンを食べる」と言ってイエスを攻め立てたのです。マルコはその解説を3〜4節で追加して語っています。水で手を洗うというのも各々の自己流でただきれいにすれば良い訳ではなく、どのように洗うのかという手順や作法も決まっていたようです。たとえば3節で「手をよく洗わずに」と訳されていますが、そのまま訳すと「こぶしで手を洗わずに」となっていて、片方の手でこぶしを握ってもう片方の手を洗ったのではないかと言われています。あるいは、こぶしの大きさの器に入れた水で洗った等の解釈もあります。あるユダヤのラビ(教師)が何かの理由で牢に入れられたとき、飲むために与えられたわずかな水を、掟を守るために手を洗うことに使ってしまい、水を飲めず死にかけたという話もあるそうです。それほどまでにきよめられることを求め、汚れることを必死に避けようとしていたことを知って、この箇所を理解する必要があります。
2,逆にイエスは別の視点で彼らの問題を暴き出されました
しかし、イエスはここで手を洗い清めることを不要としたり、逆にそれを禁止した訳ではなかったのです。そうではなく、ここでこの「汚れた手」に対する彼らの質問攻撃に対してイエスが論じられたのは、別の視点からのことでした。それは、これを守れ、あれを守れていないではないかと律法の伝統的解釈をもって他の人々を非難している彼らの心の中にある問題でした。イエスは彼らの偽善を見抜かれたのです。彼らは神の戒めを重んじているように見せかけて、実際は神のことばを「捨てている」し(8節)、「ないがしろにしている」し(9節)、「無にしている」(13節)のでした。主は10〜12節で一つの事例を挙げられました。モーセの十戒などにある「あなたの父と母を敬え」、「父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない」というユダヤ社会では誰でも知っている戒めです。ましてやパリサイ人や律法学者など、民の信仰の指導者でしたから、これらのことをいつも人々に教えていたと思います。すべてのパリサイ人や律法学者たちが次に述べられているように自分の都合に合わせた解釈をして、父母への義務を怠っていたのかどうかはわかりません。けれどもイエスがここで公に指摘されているところを見ると、彼らの中に心痛めることなく当たり前のように「これはコルバンです」(神の供え物)と言って、親への当然の義務を果たさずにいる人たちがいたのでしょう。人々に神の戒めを守るように教えておきながら、自分はそれを守っていないという彼らの態度は、義人の仮面をかぶって人々をだまし、自分の心をごまかし、神を欺いていたことになります。
3, 伝統VS神のことば
この「言い伝え」と訳されている語は、他の人に渡すという意味のことばです。自分の教えられてきた神の戒めを次世代に間違いなく渡していくこと、これは信仰の継承であり、大切なことです。そのために当時の教師たちがしたことは神の戒めである律法をどのように生活の中に適用させるかということでした。ですからこれは聖書の解釈と適用ということになります。人間の「言い伝え」と「神の戒め」とを対比すれば、誰でも「言い伝え」ではなく、「神の戒め」に従わなくてはならないことはわかると思います。ところが、この「言い伝え」というところを英訳聖書では、ほとんどの翻訳がトラディション、「伝統」と訳しています。みことばを読んで、解釈し適用することはとても大事なことであり、必要なことです。そうしなければみことばを私たちの生活の中に落とし込むことはできないからです。イエスはそれを否定されたのではありません。しかしそれがいつしか「伝統」となっていく中で固定化し、その形式だけが残り、それを絶対的規範としてしまいます。しかしそこに思わぬ落とし穴があります。自分は「汚れた手」のまま食事をしていないから、あるいは市場から帰ったら全身を必ずきよめているから、私はきよいのだと思い込んでしまう。そしてそれを行っていない人たちを見つけては優越感を持って批判したり、さばいている。しかしその一方で自分は、神のことばに照らせばおかしなことであるとわかるはずなのに、「コルバン」と言って、親への大切な義務を怠っている。そういう彼らの神のことばに対する誤った態度、自分にとって都合の良い聞き方をしていることに対して、イエスは厳しく戒められたのです。
4,神のことばを新しく聞き直し続ける
「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい」(14節)。この「聞きなさい」は、4章で繰り返されたことばを思い出させます。「よく聞きなさい」(4:3)、「聞く耳のある者は聞きなさい」(4:9,23)。後代の写本では16節として「聞く耳があるなら、聞きなさい」という文章を追加しています。要するに神のことばをどう聞くか、どう聞いて生きるのかということをイエスは私たちすべてに対して問うているのです。これを「神のことばの復権」と言い換えた人もいます。神のことばを「わたしに聞け」と言われるイエスを通して、聞き直す必要が私たちにあることが語られています。神のことばを神のことばとしてなぜ聞き直すことが大事であるのかと言えば、それは14〜23節でイエスが仰せられたことで明らかにされています。外から入って来るもの、食べ物等によって私たち人間が信仰的に汚れることは何もないのです。私たちを汚すものは、実は私たちの内側から出て来るのだと、とても衝撃的なことをイエスは言われました。人間の心の中から「淫らな行い、盗み、殺人、…」といった悪い考えが湧き出て、自らを汚すことになることを明らかにされました。それゆえに私たちは誰でも皆、つねに神のことばを新しく聞き直し、悟っていくことを繰り返し続けていかなくてはならないのです。