「神の憤り」

ダニエル書 11:2ー19

礼拝メッセージ 2025.1.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神は歴史すべてを見ておられ、知っておられる

「南の王」と「北の王」

 ダニエル書が記録する「最後の幻」(10〜12章)を見ています。11章はその本体部分ですが、たいへん読みづらいところではないかと思います。これまでの「獣」というような象徴的表現ではなく、具体的な歴史記述が長く語られているからです。最初から見ると、ペルシア帝国についてはわずか2節の記述だけです。3節の「一人の勇敢な王」とはアレクサンドロス大王です。4節にあるように彼の死後(紀元前323年)、正当な継承者が決められていなかったため、ギリシア帝国は彼の支配下にあった四人の将軍たちによって分割され、各々統治されました。4節のとおり、アレクサンドロス大王の血筋の者たちはすべて殺され、これらの将軍たちが国を分捕ってしまいました。
 5節以降から「南の王」と「北の王」という表現で、二つの国同士の戦いが描かれます。それは先程の四人の王による王朝のうち二つの王国を指しています。「南の王」はエジプトを拠点とするプトレマイオス王朝で、「北の王」とはシリアとバビロン地域を拠点とするセレウコス王朝を指しています。二つだけで他の国が出て来ないのは、地理的にこの「南の王」と「北の王」との激しい闘争にユダヤが巻き込まれ、直接影響を受けたからです。特に5節から20節まで非常に具体的な預言となっていますが、まさに書かれていたとおりに成就しました。
 6節を見ると、絶え間ない戦闘の中、紀元前250年頃、「南の王」プトレマイオス二世フィラデルフォス(前285〜246年)が、娘のベレニケを「北の王」アンティオコス二世テオス(前261〜246年)に政略結婚で嫁がせます。それで両者間で「同盟が結ばれます」が、「彼女の勢力は保たれず、彼の勢力も続かない」とあるように、これが失敗に終わります。アンティオコス二世はこの結婚のため、前妻ラオディケと離婚し、彼女の息子たちの相続権を排除しました。ところが離縁されたラオディケは、アンティオコス二世とベレニケを毒殺してしまいます。7節から9節のとおり、ベレニケの兄弟プトレマイオス三世エウエルゲテス一世(前246〜221年)がシリアを攻撃して多くの財宝を略奪して、エジプトに持ち帰りました。この後もいろいろな出来事が20節まで綴られますが、それはおもに両国間の戦争でした。

アンティオコス四世

 21節からはこれまでも見てきたアンティオコス四世(在位:前175〜164年、エピファネス)がクローズアップされています。8章9節以降で「一本の小さな角」と預言されていた人物です。アンティオコス四世について、これほど多くの預言が語られているのは、直接ユダヤの民に大きな苦しみと迫害をもたらしたからです。さらにもう一つは、この人物の中に神に敵対し民を迫害する者の姿が示されているからです。これまで歴史に現れた「反キリスト」(Ⅰヨハネ4:3)、「不法の者」(Ⅱテサロニケ2:3)の原型です。そしてそれは彼から二千年以上も後に生きている私たちにとっても警告となっているのです。
 このように歴史上で起こったことが、そのとおりに預言されていることから、ここに神の預言の確かさと歴史を支配している神の全知全能を見ることができます。少し見ただけでもわかるように11章の内容の多くは、歴史記述そのものと言って良いぐらい正確に歴史を伝えています。でも、それはある人たちが言う「事後預言」なのではなく、本物の「未来預言」なのです。これは本当に驚くべきことです。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べ立ててみよ。彼らに未来のこと、来たるべきことを告げさせてみよ」(イザヤ44章6〜7節)。神は歴史すべてをご覧になっており、完全に見通しておられます。そしてご自身の計画を必ず果たしていかれます。36節あるいは40節以降は、二十一世紀の私たちにとっても未来の預言でしょう。それは紀元前二世紀の中に留めておけない、これまでまだそのとおりに起きたことのない内容であるからです。それらも必ず起こります。


2,拠り所を壊されて、いかに生きるべきか

人間の罪の歴史

 第二に、11章は「人間の罪の歴史」とも言えるものを表しています。これまでの内容にもあったように、権力者たちの横暴と驕り高ぶり、権力への飽くことのない欲望、それによって生じる戦争による荒廃と、民の苦しみが読み取れます。「思いのままふるまう」という表現は三回あり、3節のアレクサンドロス大王、16節のアンティオコス三世(「大王」と呼ばれる)、36節のアンティオコス四世と思われる人たちの姿を示すために使われています。ここには侵略を企てては崩れ、崩れてはまた起こる強国の王たちの姿が淡々と何の誇張もなく乾いた文章で記されています。それによって空虚な争いを何百年も繰り返す人間の愚かさが示されています。軍事的英雄や政治的天才もやがては没落し滅びていきます。そうした外的混乱と抑圧の中、神の民も迫害を受け、多神教の誘惑を受けて、信仰が揺り動かされます。「荒らす忌まわしいもの」という名の偶像が聖所の中に据えられます。

堅く立って事を行う

 詩篇11篇3節に「拠り所を壊されたら、正しい者に何ができるだろうか」と詩人は問います。まさにそれがこのダニエル書が描く世界でした。「心の拠り所、信仰の拠り所が壊されてしまったら、あなたはどう生きるべきか」とこの書は私たちに問うています。31節から33節のとおり、アンティオコス四世はユダヤ人の礼拝と信仰の習慣を禁止し、神殿に異教の神々の像と祭壇を築き、強制的に拝ませました。ユダ・マカバイによって紀元前164年に神殿が清められるまで「三年半の間」、その「荒らす忌まわしいもの」が神殿に据えられていたのです。
 拠り所を壊された義人は何をなすべきなのか、それを示すのが32節です。「彼は、契約に対して不誠実にふるまう者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは堅く立って事を行う」。続く33節には「民の中の賢明な者たちは、多くの人を悟らせる」とあり、その「賢明な者たち」は「剣にかかり、火で焼かれ、捕らわれの身」となるのですが、神は「終わりの時まで」彼らを練り清め、白くされます。そして「定めの時」に「神の憤り」によって決着がつけられます。正しいさばきがなされるのです。「賢明な者たち」は「輝く星のように」なります(12:3)。いかなる時代にあっても、拠り所が壊されるような時に至っても、「堅く立って事を行い」ましょう。主は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)と言われ、パウロもこう記しています。「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」(Ⅰコリント15:58)と。