「神の恵みから落ちないように」

ヘブル人への手紙 12:12ー17

礼拝メッセージ 2025.11.16 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい

手や膝の疲労

 「ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい」(12節)と始まる著者の勧告は、私たちの信仰について注意を促すことばです。12章1節から2節で表現された競技場の比喩がここで繰り返されていると考えられます。競技場の中では「多くの証人たちが、…雲のように私たちを取り巻いて」います。私たちは「自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続け」ます。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さずに」。
 信仰生涯のレースは生きている限り続きます。それは長距離走のような耐久レースでしばしば走者が経験することですが、手や膝が疲労してきます。疲れ始めると、腕が下がって来て、テンポよく走り続けられなくなります。次に膝のほうもぐらついてきます。本当のレースでは、この状態になると、スピードが極端に落ちて、棄権せざるを得ないこともあるでしょう。
 そのように疲れてしまったら、休めば良いと言われていません。なぜなら、この比喩では、それは信仰を捨てることを意味するか、あるいは人生を終わらせてしまうことになるからです。とは言え、聖書の多くで語られているように、疲れている人はイエスのもとに来て休みましょう(マタイ11:28)。日本語の「疲れる」という語は、辞書によると「尽きる」ということばから来ているようです。つまり、エネルギー切れということです。そんな人はイザヤ書40章31節「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」を読み、すべてを主に委ね、休息を取りましょう。

私たちは完走できる

 ここで著者がイメージしている競技場の比喩は、私たちをアマチュア選手ではなく、トップアスリートとして見立てているのです。しかし、いくら実力が高くとも、レースそのものは苦しく、そのための訓練も辛いものです。だから言うのです。「弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい」と。あなたにはそれができるし、走り抜くことができるし、勝利も目前であるということです。この12節はイザヤ書35章3節から4節を踏まえてのことばと言われます。「弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ。恐れるな。…神は来て、あなたがたを救われる。』」(イザヤ35:3〜4)。
 続く13節「また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです」も、この競技場の比喩を前提として理解できます。自分の足のためにまっすぐな道を作るとは、今走っているコースあるいはレーンからそれることなく走り続けることです。もしレーンから外れてしまうと自分自身が失格となるばかりか、他の走者の妨げにもなります。


2,平和と聖さを追い求めなさい

平和を追い求める

 次に「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい」と命じられています。「平和」と「聖さ」という二つのことを追い求めること、それは車の両輪、あるいはコインの裏表のように一体であることを意味しています。
 まず、この「平和」は何を意味しているのでしょう。「すべての人との平和」とありますので、これは人と人との関係における平和のことです。それは、個人の人間関係から国家間の関係まで含めて考えることもできます。現代ほど、平和が求められる時代はないように思いますが、どのレベルにおいても、平和の関係を築くことは容易なことではないことを私たちは知っています。武力には武力を、個人間でも攻撃を受けたらやり返すという報復は当然のこととされる世の中です。ヘブル書の著者がここで直接意図したのは、おそらくコミュニティや、教会、家族の中、という小さな範囲のことでしょう。
 平和とは単に争いや揉め事がないという意味ではありません。人が真剣に生きていたら、考え方や意見の相違から衝突することは避けられません。それを面倒くさがり、逃げたりしていては、本物の人間関係は築けません。ぶつかったときに、どう解決するか、また和解できるかということが肝心なことでしょう。相手のことを「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人」(ローマ14:15)として見なくてはなりません。そして可能な限り冷静に向かい合い、話し合うのです。赦し合うことができる平和な関係の構築をともに追い求めたいと思います。

聖さを追い求める

 二番目に「聖さ」です。これは聖い神様との関係を言っています。私たちは神を愛するゆえに、そのご栄光のために聖別された純粋で従順な聖なる生活を求めるのです。しかしだれもみな、生まれながらの罪の性質ゆえに、そのままでは聖いとは言えません。しかし、主イエス・キリストを信じ救われることができるし、そうして私たちは新しくされ、聖なる者と造り変えらるのです。しかし、そのことを忘れて罪の誘惑に負け続けてしまうと、自らを汚してしまうことになります。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。」(ヨハネ13:10)と弟子たちの足を洗われたイエスが言われたように、十字架のみわざによるきよめ以外に私たちをきよくする道はありません。罪の告白を伴う悔い改めによって神に近づき、「主イエスの血がすべての罪から私たちをきよめ」る(Ⅰヨハネ1:7)ことを知り、実践しましょう。

神の恵みから落ちないように

 「平和」と「聖さ」への追求から、15節以降には、それを無視したり、あきらめたりすることへの危険が警告されています。警告のことばとして「だれも神の恵みから落ちないように」と記しています。「落ちない」という表現はユニークで、多くの翻訳では「漏れない」や「あずかれない」と訳されます。このギリシア語は元々時間に「遅れる」というニュアンスがあります。電車等に乗り遅れることを考えたら良いかもしれません。『子ども賛美歌』で「福音の汽車」という歌がありますが、その歌詞のようにその汽車には「切符はいらない」のです。乗るか乗らないかは自由です。でも、乗らなければ神の救いの恵みを受けられません。
 さらに、「苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい」と命じられています。これは二つの理解の可能性があります。一つは、申命記29章18節に基づいて、偶像礼拝や異教の信仰に流されることへの警告です。もう一つは、「苦い根」が他者に対する「苦々しく思う感情」のことであるとするものです。植物の「根」はたいてい地面の中に隠れていて見えませんし、広がるものですから、互いに気をつけなくてはいけないのです。