「神の忍耐と人のとりなし」

創世記 18:16ー26

礼拝メッセージ 2018.11.25 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神と親しくなるー神の友アブラハム

神の友と呼ばれたアブラハム

 主を信じて、義と認められた時と、18章のこの出来事を通して、アブラハムは「神の友」と呼ばれました。「私たちの神よ。あなたは、この地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、とこしえにあなたの友アブラハムの裔にお与えになったのではありませんか。」(Ⅱ歴代20:7)、「わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。」(イザヤ41:8)、「『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ2:23)。聖書にこんなふうに「神の友」と呼ばれた人はほかにありません。神がアブラハムを友と呼ばれたということは、逆の立場から見れば、アブラハムは神との友情を結んでいたと言い換えることもできるでしょう。神を信じる信仰というものは、私たちと神との関係を、人と人との友情関係のように、あるいは恋人や夫婦のように、互いへの信頼と愛による絆を結ばせるものなのです。主イエスも、弟子たちに対して、彼らを「友」と呼び、互いの愛の関係性を表しました。「わたしが命じることを行うなら、あなたがたがわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」(ヨハネ15:14−15)。

主のご計画を聞くアブラハム

 不思議なことですが、18章17〜21節で、主はご自分の思いとご計画を独白されています。特に17節で「わたしは自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と自問なさっています。親友に対して、その深い心の思いを打ち明けるように、主はアブラハムに対して、ご自身のお考えを述べられるのです。それはアブラハムに対して約束された内容というだけではなく、アブラハムにとっての外側の世界、ソドムとゴモラという町に対する、神の御心を明らかに示されたのです。「まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。」(アモス3:7)。しかもそれは大変な御心でした。ソドムとゴモラをその罪の大きさのゆえに裁きを下し、滅ぼしてしまうという重大事でした。


2,神にとりなすーとりなし手アブラハム

主に訴えるアブラハム

 主のご計画を知らされて、甥のロトが住んでいることもあって、アブラハムはそのことに対して、主に必死にとりなしをし、赦しと助けを嘆願しました。ここに、私たちは信仰を持っていたアブラハムが、神に対してどのように交わっていたのか、あるいはどのように祈っていたのかを教えられるのです。特に、25節は主に対する強烈な訴えの言葉です。「正しい者を悪い者とともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にあり得ないことです。全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。」悪い者をさばくために、町全体を滅ぼしてしまうことで、その中に住んでいる正しい者もその巻き添えで殺されてしまうことになるのは、納得がいかないというのです。25節で「絶対にありません」「絶対にあり得ないことです」と訳されている言葉は、「汚す」とか「冒涜する」という意味の言葉が使われていて、直訳的に表現すると、「それは汚すことだ!」となります。これは相当に激しい言葉です。これは祈っているとか、願っているというようなことを超えて、激しく神に対して訴えの言葉をぶつけているような感じです。この後、アブラハムの孫のヤコブが、ヤボクの渡しで、夜通し主の使いと格闘するという話がありますが、神を信じて歩むということは、そういうことを含んでいます。ヨブの叫びのように、預言者ハバククが訴えたように、アブラハムも主に対して、真正面からぶつかっていきます。

主に執拗にとりなすアブラハム

 さらに、24節から始まる、もし正しい者が五十人いたら、四十五人いたら、四十人いたら、三十人いたら、二十人いたら、十人いたら、とアブラハムは主にとりなします。このくどいまでのアブラハムの嘆願は、信仰による祈りがどれほど粘り強く、執拗であらなばならないかを教えています。もしかすると、私たちの祈りは、型通りのもので、あっさりとし過ぎているのかもしれません。神がご人格をもった無限のお方であり、私たちと親密な関係性を結んでくださることを知っているのならば、私たちの祈りの姿勢は変わるのです。イエスは、ある時、真夜中に友人宅に行ってパンを求めるという面白い話をされました。真夜中に起こされる方の身になってみると、こんなに迷惑で非常識な話はありませんが、話はこう結ばれています。「友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(ルカ11:8−9)。私たちも執拗に祈り続けましょう。

主の救いは忍耐である

 しかし、創世記18章のアブラハムの執拗なとりなしは、結果として主に聞かれたのか、と言うと、町に十人も正しい者がいなかったために、結局、ソドムとゴモラは滅ぼされてしまうことになってしまいました。そうするとある人はこう思うでしょう。もし十人ではなく、五人いや、一人までもっと粘れば良かったのではないか、と。でも、それは違うのです。罪深いこの町に、正しい者が十人もいないということは、罪と滅びから立ち直る可能性がないということなのです。逆に言えば、もしたったの十人であっても、正しい者たちがいたならば、この町は裁きを回避できるだけでなく、この町が主に喜ばれる町へと生まれ変わる可能性があるということなのです。結局、正しい者が五十人いるか、十人いるかで、裁きが避けられるということは、悪い者たちも裁かれずに生き残ることになります。それで良いわけではなく、その悪い者たちも正しい十人の人たちによって、悔い改めて主に立ち返ることが主の御心なのです。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Ⅱペテロ3:9)のとおりです。