「神の御子と御使い」

ヘブル人への手紙 1:5ー14

礼拝メッセージ 2025.2.16 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,御使いのことを知っていますか

御使い礼拝をしている人への警告

 5節からの内容は、神の御子イエスは、御使いと比べて、優れて偉大なお方であることが説明されています。詩篇を中心に7つの旧約聖書箇所から引用がされ、御子は御使いとは比べものにならないほど、偉大なお方であることが証明されます。それは、この手紙全体の中心テーマ、「すべてにまさるイエスに心を集中する」ということです。しかし、それを説明していく初めに、この書の著者は御使い(天使)という存在を取り上げました。これはいったいどういうことなのでしょうか。なぜ、御使いのことなのでしょうか。
 コロサイ人への手紙にこう書いています。「自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、かしらにしっかりと結びつくことをしません」(コロサイ2:18〜19)。ここに「御使い礼拝」ということばが出てきます。ある学者の説明によると、この手紙の宛先の人たち(おそらくユダヤ人)は、御使いを神に次ぐ最高位の存在として非常に尊敬し、ある者たちはコロサイ書にあるように、「御使い礼拝」という誤った考え方にまで陥ったと言います。あるいは、主イエスを御使いと取り違える過ちを犯していたようです。

御使いの存在に気づいていた人たち

 聖書には御使いに関して、旧約に108回、新約に165回言及されています。御使い(天使)については、現代の多くの信仰者たちはあまり気に留めていないかもしれませんが、御使いは確かに存在します。彼らは人間の姿をとって現れることもありますが、本質的には肉体を持たない目に見えない人格的実在です。今回の箇所にこうあります。「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされている」(14節)と。彼らは私たち人間を遥かに上回る力を持っています。たとえば、ダニエルが獅子の穴に投げ込まれた時、「私の神が御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の危害も加えませんでした」(ダニエル6:22)と彼が告白したとおりです。ペテロが厳重な監視の下に牢に閉じ込められている中、御使いが超自然的な方法で彼を導いて脱出させました(使徒12:6〜)。御使いは、天において神のみそば近くで仕え、賛美し、ときに地上において、神の聖徒たちを助けたり、神からの大切なお告げを取り次ぎます。
 新約聖書を調べてわかることは、ヘブル書の著者や、ペテロやパウロは、御使いの存在を身近に感じていたということです。この書には「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました」(13:2)と記しています。パウロは当時の礼拝の秩序を守るための習慣として女性信徒の「かぶり物」について注意していますが、その中で「女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです」(Ⅰコリント11:10)と述べています。集う人間の会衆のためではなく、「御使いたちのため」と言っています。
 これらの記録から分かることは、初代教会の人たちは、通常目には見えない御使いという存在を日頃から意識して生活していたということです。とすれば、私たちも旅人の姿をした御使いを知らないうちに、もてなすことがあるかもしれないし、この礼拝の中にも目には見えなくても数知れぬ御使いたちが参加しているということになります。詩篇91篇11節「主が あなたのために御使いたちに命じて あなたのすべての道で あなたを守られるからだ」は、心に留めるべきことです。危険に見舞われた時、あなたの知らないかたちで、神が御使いを通して、あなたを守られることがあるのです。


2,御使いにまさる比類なきお方―御子イエス

良いものであっても神としてはならない

 大切な点は、御使いは人間を超える能力を持っていると言っても、あくまで我々人間と同じ神の被造物であり、彼らを礼拝の対象にしてはいけないということです。「私は、…御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。『いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。』」(黙示録22:8〜9)。私はこの点で、現代の私たちも、神ではないものを拝むことのないようにということが、今回の聖書箇所が警告していることであると思います。御使いではなく、「主イエスを神とせよ」という命令です。当時の人々にとっての誘惑は「御使い礼拝」でしたが、今日の私たちにとって、それは何でしょうか。目に見えない何かが私たちの心を支配していないか、考えなくてはなりません。それがたとえ御使いのように良い存在であったとしても、それらを神とすることのないように注意すべきです。たとえ社会における人間同士の絆のようなものであったとしてもです。大切にしなくてはならないことであっても、それは神なのではありません。神のおられるべき心の中心に、ほかのなにものをも決して置いてはならないのです。

御子は永遠の王、神、創造主

 これらのことを踏まえて、5節以降を見てください。御子の比類なき属性が明らかにされています。「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」(詩篇2:7の引用)。「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」(Ⅱサムエル7:14)。これらが指し示すことは、どんな御使いも単独で神から「わたしの子」と呼ばれたものは一人もいないということです。そしてこの宣言のことばは、王の即位を示しています。御子こそが、神によって立てられた王の王、主の主です。6節と7節の詩篇89篇と97篇の引用では、この御子は礼拝されるべき方であり、それに比べて御使いは有限な存在であることが対比されます。8節は御子に対して、父なる神が、「神よ」と呼びかけています。御子は神です。そして王です。10節から12節では詩篇102篇等が引用され、御子が天地の創造主であり、被造物と異なり古びることも移り変わることもない、永久不変のお方であることが明らかにされています。
 これらの引用聖書箇所の一つ一つから見えるイエスというお方を、祈りの時間に黙想してみてください。みことばから、御子が自分のイメージできる最大の大きさを遥かに超えることが分かります。御使いは素晴らしい存在者ですが、救いを受け継ぐ私たちに仕えてくれる者たちです。私たちがもっともっと心の中をいっぱいにして良いお方は、御子イエスのことです!救いの創始者であり、完成者であるイエスから目を離さず、人生というマラソンを走り続けましょう。