「神の子どもの苦しみと栄光③」

ローマ人への手紙 8:28ー30

礼拝メッセージ 2017.10.1 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,「神を愛する人々」に約束されている究極の保証

神を愛する人々

 有名な聖句である28節で、最初に目を留めていただきたいのは、「神を愛する人々」という表現です。その理由は、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という幸いを受けられるのは、実は、すべての人ではなく、「神を愛する人々」に対してのものであることが明示されているからです。もし、「神を愛する人々」の一文がなければ、万事が益となるというのは、単なる楽観主義になってしまいます。この世界は、現在はいろいろな苦しみや悪の問題があるが、そのうちにきっと良くなるだろう。現実は暗く見えていても、いつかだんだん良くなっていくはずであると、いうような見方です。しかし、これは、聖書が語る終末とは異なっています。聖書は、逆に、世の終わりに向かって、世界は混迷を極めていき、悪くなって行くことを示しています。戦争や紛争、地震などの大災害の頻発、愛の冷えた人間が増加すること、迫害が起こること等が預言されています。
 それからもう1つ注意すべきことは、この聖句から、この世の悲惨、悪、罪、災い、病気等を、現実のことではないように取り扱うことも間違いです。聖書は、悪や罪や災いの事実を否定してはいません。悪は悪であって、益ではありません。病気も益ではありません。罪や失敗も、それがもたらす痛みや傷から、あるいは、その負うべき責任から逃れることはできないし、その言い逃れや口実に、この聖句を使うことはできないのです。「すべてのことを働かせて益としてくださる」という真理は、「神を愛する人々」に与えられた確かな神からの約束であり、保証です。まさに、この28節は「究極の保証」、「最終的な安全」です。

私たちは知っています

 28節は、原文では「私たちは知っています」という語から始まります。そして、その知っていることの内容が続きます。明らかなことは、「私たちは知っている」であって、「私たちはそう感じている」とか、「私たちはそうなるように期待している」のではない、ということです。「私たちは知っています」とは、信仰の確信であり、表明です。これは、パウロの個人的経験や感想を述べたものではありません。「私たち」と表現すべき、主を信じている者一人一人が、共同体として、全員の確信とすることができることを表しています。
 それで、皆様にぜひお勧めしたいことは、皆様すべてが「神を愛する者」となっていただきたいということです。良き偶然を願いながら、生きるのではなく、また非人格的な運命という気まぐれな歯車に委ねるのではなく、聖書に啓示された、すべての創造主、確かな真の神を信じ、愛し、従っていただきたいのです。もし今日信じるなら、この約束は、たった今から、あなたが受け取るべき保証となります。


2,「神を愛する人々」なのに、どうして苦しみに遭うのか

 18節で「今のときのいろいろな苦しみ」とパウロは書きましたが、この苦しみの中に置かれていることに対する信仰の答えを、神を愛する人々であれば、だれでも知りたいと思うことでしょう。だから28節で「神を愛する人々」と記した理由も、そこにあると思います。つまり、神を愛している人たちよ、あなたがたは今、さまざまな苦しみを経験しているでしょう。そして、神がともにおられると信じているのにどうしてこんな目に遭わなくてはいけないのか等の疑問を持っているかもしれません。でも覚えていてください。私たちの確信は「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」ということですよ、と彼は言っているのです。
 実は、この28節には、大きく言って2つの読み方があります。1つは、新改訳のように、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という、主語を「神」とする読み方、もう1つは、文語訳や新共同訳のように「万事が益となるように共に働く」(新共同訳)として、「万事」を主語にする読み方です。どちらに翻訳したとしても、結果として言えることは、神の存在抜きに、万事が益とされる原因や理由はないということです。また、神を知り、神を愛さなくては、万事が相働いて益となるということを、正しく認めて理解することはできないことがわかります。


3,「神を愛する人々」は「神のご計画に従って召された人々」

 創世記のヨセフや、苦難の人であるヨブの人生が示している通り、28節〜30節が述べていることは、神は、私たちにご計画を持っておられ、確かに導いておられるということです。そして、それは行き当たりばったりのものではなく、神の備えられた道筋とゴールが明確に定められているということです。
 「すべてのことが働いて益となる」という保証は、「神を愛する人々」に与えられています。聖書には、神が人々を愛するということは多く語られていますが、人間のほうが能動的に神を愛するという表現はそんなに多くありません。この言葉が指している人たちのことを、続く聖書の言葉では、さまざまに言い換えられています。「神のご計画に従って召された人々」(28節)、「あらかじめ知っておられる人々」(29節)、「あらかじめ定めた人々」(30節)。よく見ると「神を愛する人々」という表現以外は、すべて行為者が神に変わっています。つまり、なぜ「神を愛する人々」になったのかと言えば、まず、神がご計画のうちにその人を選んで、召し出したのです。この神のご計画、目的、という視点が大切です。
 そのことを踏まえた上で、「益とする」を考える必要があります。「益」と訳されたアガソスというギリシア語は、どちらかと言えば、良いこと、善、立派なこと、性質が良いという意味の語です。そこで、「益」とは、人間が必ずしも求めている利益ではないことがわかります。でも、人間は近視眼的で、真に価値あることを見定める力を持っていません。しかし神の用意してくださる「益」は、人間にとって最も良い「益」であることを確信してください。そして、その「益」となる道筋が、29〜30節に記されているのです。29節では、それは、人々を「御子のかたち」にすることだと書かれています。そして、30節では、予知―召命―義認―栄化の流れが語られています。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(30節)。