「神の子どもの苦しみと栄光②」

ローマ人への手紙 8:26ー27

礼拝メッセージ 2017.9.24 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,御霊は、弱い私たちを助けてくださいます

弱い私たち

 26節で「弱い私たち」(原文「私たちの弱さ」)と書かれているのは、「今の時のいろいろの苦しみ」(18節)の経験を通っているからでしょう。いろいろな苦しみを味わう中で、私たちは自分の弱さを実感します。パウロ自身、自分の弱さを痛いくらい自覚していました。「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。」(Ⅱコリント11:29)、「肉体に一つのとげを与えられました。…これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。」(同12:7〜8)。パウロは、とてもタフな人のように見えますが、聖書を見ると、彼は多くの人から憎まれ、暴力を受けたり、精神的にも圧迫を感じていたようです。それに加えて、「肉体のとげ」と表現される病気との闘いがありました。そういう辛くて厳しい中にいた彼ですから、「弱い私たち」と書いたのでしょう。
 もちろん、これは、私たちの魂、内面における霊的な闘いについての自覚でもあります。「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」(ローマ7:23)と書いていることです。罪との戦いに勝てず、連敗しているような自分の弱さをも含んでいます。

御霊の助け方

 しかし、喜びを与える事実は、私たちには、御霊がおられるということです。「御霊も同じようにして」(26節)とありますが、文の流れから行くと、これは、神の子どもたちを栄光の自由の中に入れてくださるという終末の希望です。この希望が私たちを救ってくれます。でも、神の将来のご計画による希望だけでなく、この今、現在という時のただ中において、聖霊を与えてくださっているから、だいじょうぶであることが明らかにされています。
 26節で御霊が「助けてくださいます」と記されています。この「助ける」と訳されたのは、とても長いギリシア語の単語で、スナンティランバノマイという語です。これは、3つの部分から成っている言葉で、スン(ともに)、アンティ(対して、代わって)、ランバノマイ(取る)が組み合わされています。この語を見れば、助けるとはどういうことか、どんな助け方なのかがわります。御霊は、第一に、私たちの弱さを助けてくれるために、「ともに」いてくださいます。御霊は霊的存在者ですから、目には見えませんが、確かにともにおられるのです。神学的には、父なる神と、イエス様は、今、天におられます。しかし御霊は、地上の私たちとともにおられるのです。一緒にいてくださることほど、心強いことはありません。
 第二に、御霊は、私たちを助けるために、私たちに向かい合ってくださいます。対面して、顔を見て交わってくださる、私たちのことを見つめていてくださるということでしょう。加えて、この「アンティ」には、〜に代わって、の意味もあり、私たちの苦しいところを代わってくださる、あるいは被告に代わって、弁護の言葉を述べるという意味合いもあります。御霊は、私たちの側に立つ、素晴らしい味方として、ともにいてくださるのです。
 第三に、御霊の助け方は、取ってくださるということです。これは、重荷を担うということでしょう。スナンティランバノマイという語は、援助したり、手伝うということを表しているので、その仕方は、私たちが何もせずに、全部勝手にやってくれるというかたちではなく、御霊が私たちの弱さという重荷の半分を担いでくれるというイメージがふさわしいでしょう。


2,御霊は、祈りにおいて私たちを助けてくださいます

何を祈るべきかを私たちは知らない

 26〜27節で言われている、御霊による助けは、特に、祈りにおいて発揮されることが記されています。なぜ、祈りについて、ここで取り上げられているのかは、祈りこそが、最も大切なことだからです。この8章で、神の子どもとされたことの恵みが述べられてきていますが、神の子どもと、そうではない人との相違は、神を「アバ、父」と呼んでいるかどうか、なのです。つまり神への祈りがあるかないかで、神と親子関係かどうかがわかるのです。ところが、ここで示されていることは、「私たちは、どのように祈ったらよいかわからない」ということです。この「どのように」とは、祈りの方法や、その仕方ではありません。「何を」祈るべきかを私たちは知らない、という指摘です。何を、父に願い、求めるべきなのか、私たちの霊的な知識や理解が浅いためにわかっていないのです。全被造物の創造者、聖なる神を前にして、私たちの父よ、と呼びかけ、私たちは何を本当に祈るべきなのでしょうか。聖書を読むと、いろいろな祈りが記録されていますが、自分の日頃の祈りの内容と比べると、どうでしょうか。あまりにも自分の願望だけに偏りすぎていないでしょうか。もちろん、具体的な様々なことをお祈りすることは大切なことです。でも、それが祈りの中心であって良いのでしょうか。このローマ8章に記されている、神の終末の壮大なご計画を覚えて、救いの完成を願い、全世界が贖われることを祈り求める必要があります。

御霊はうめきをもって私たちをとりなす

 しかし、26〜27節が明らかにしていることは、御霊が、何を祈るべきかを知らない、この弱い私たちのために、とりなしをしてくださっているという恵みが記されています。その祈りは、「言いようもない深いうめき」と表現されています。言葉で表せない「うめき」です。この、うめいているということは、この8章で、他にも出て来ていました。まず、22節で、被造物全体がともにうめいています。次に、23節では、私たち人間がうめいています。そしてこの26節では、御霊がうめいています。御霊のうめきは、人間の発するうめきとは異なり、「神のみこころに従って」のとりなしとなるのです。こう見ていくと、御霊を宿し、御霊の中に生きている私たちができる最善は、やはり御霊によって祈ることです。御霊が祈るので、私たちも祈るのです。「絶えず祈りなさい。…御霊を消してはなりません」(Ⅰテサロニケ5:17,19)、「どんなときにも御霊によって祈りなさい」(エペソ6:18)。