ローマ人への手紙 8:18ー25
礼拝メッセージ 2017.9.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,今の苦しみと、将来の栄光とを比較する(18節)
「アバ、父よ」→ 神の子ども→ 相続人
前回のところで、神を求め、信頼している者はだれでも、「アバ、父よ」と神に向かって叫ぶことができることを見ました。全能者、創造主である神に対して、親しいお方として近づける幸いです。パウロの言葉の続きを見ると、神を「父」と呼べる御霊を受けた私たちは、それならば神の子どもであるし、子どもであるなら、相続人でもあることが17節で明らかにされています。神の相続人、キリストとの共同相続人です。私たちは、後に必ず栄光を受ける者とされているのです。
苦しみから栄光へ
ところが、神を父とお呼びできる神の子どもとされ、御霊の保証を受けている私たちなのに、どうして、いろいろな苦しみに出会うのか、と思うことがあります。信仰を持っているのに、神に助けを求めて教会に来たのに、苦難がなくならないのは、なぜなのか、そんな疑問を抱くことがあります。人生の最も難しい謎であり、問いが、苦難の現実かもしれません。苦しみの問題は、いつの時代にも、信仰のつまずきとなって来ました。宛先のローマの教会の人々も、パウロも、その意味では、同じ人間として、現代の私たちが抱える疑問に関して、同じような葛藤があったことでしょう。だから、17節で「キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら」と書いたあと、すぐの18節で「今の時のいろいろな苦しみは…」と説明を続けています。17〜18節を読んでわかることは、「苦しみ」と「栄光」という二つの言葉は、ワードペアになっているということです。17節で「栄光をともに受けるために苦難をともにしている」とあり、18節では、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば」となっています。しかもこのつながりには、順番があります。いつも必ず、苦難が最初にあって、それを通って次に、栄光となっています。これは、キリストご自身の歩みでもありました。「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ24:26)。あるいは、初代教会において、使徒たちが信徒たちを励ます言葉にも見られます。「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国に入るためには、多くの苦しみを経なければならない』と言った。」(使徒14:22)。
苦難は取るに足りない
聖書は、人生において苦しみがあることを否定したり、苦難が無いかのごとく目をつむるようなことはしないのです。パウロは主を証しするこれまでの生涯で、多くの苦難を経験し、それを手紙にも記してもいます。では、苦しみがあることに落胆したり、絶望していたかと言えば、決してそんなことはありませんでした。パウロは、将来の栄光について語り、今のときの苦難と、後に来る栄光とを比較しています。すると「取るに足りない」(18節)ことがわかるのです。これは元の意味では「重さが足りない」ということです。天秤ばかりで計ると両方にあまりにも差があり過ぎて計れないのです。栄光があまりにも重くて、それとの比較では、今の苦しみは軽くて小さく見える、ということでしょう。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(Ⅱコリント4:17)。苦しみから目をそらしたり、否定するのではなく、それを直視しつつも、将来の栄光を受けるとの約束の素晴らしさに目を向けて生きること、これこそ18節が示していることです。
2,神の子どもの栄光を被造物が待ち望んでいる(19−25節)
救われて終わりじゃない
では、私たちが受ける将来の栄光とはどんなものなのでしょうか。これは、神学用語では「栄化」と呼ばれていることです。つまり、救い の完成に至った時点で成就する約束の到達点です。信じて救われたら、それですべてが終わったかのように思っている人がいるかもしれませんが、それで終わりではありません。さらに重要なゴールが私たちには予定されているのです。17節にあったように、「キリストと、ともに栄光を受ける」時が来ると、聖書は約束しているのです。エルサレムの美しの門で足なえの人が癒やされた時、ペテロは語りました。「主の御前から回復の時が」来ること、イエスが、「万物の改める時まで、天にとどまっていなければ」ならないことです(使徒3:20〜21)。キリストが再び来られるとき、主の日が到来する時、神の子どもたちも復活し、栄光を受けて現れることになるのです。パウロは、神のご計画によって終末に起こることを、7章までは、あまり詳細に語って来ませんでした。でも、神の子どもとされた一人一人が正しい確信をもって日々を歩み、御言葉の希望をもって苦難を乗り越えていくために、この8章になって、万物の回復の時、被造世界の回復を述べて、私たちの真の救いが宇宙的規模であることを明確に記しています。
虚しい存在となった世界
19〜22節で、私たち人間の堕落によって、この世界が変わってしまったこと、「虚無に服し」(20節)、「滅びの束縛」(21節)の中にあることを明らかにします。創世記3章の堕落の出来事が前提となっています。創造主の視点から見れば、罪は人間だけを変えたのではありません。大宇宙、自然さえも、その本来的な姿から堕ちてしまったのです。19節「切実な思いで」と訳されているギリシア語の言葉は、首を長く伸ばして待っているという意味であり、19,23,25節「待ち望む」(ギリシア語アペクデコマイ)は、ギリシア語辞書には、言葉を分解すると「離れて(アポ)」+「外に出て(エク)」+「迎える(デコマイ)」と書いてあり、それは「一日千秋」の思いを表すとも書いていました。もちろん、動物も草木も、そんな素振りは見せません。これは擬人化表現です。でも被造世界全体が、私たちの栄化の時を、今か今かと待ち焦がれているのです。そして、最後の23〜25節では、被造物が待ち望んでいるだけではなく、私たち人間も、その時を「心の中でうめきながら」(23節)待っているのです。初穂である御霊を受け、忍耐する希望を持って、歩みましょう。