「神の奥義の管理者」

コリント人への手紙 第一 4:1ー5

礼拝メッセージ 2016.4.10 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,主に仕える人が持つべきアイデンティティとは(1節)

 自分がどういう者、あるいは存在として、歩むべきかということを自覚することは大切なことだと思います。パウロは、この箇所で、自分がどういう者であるのか、コリントの教会の人たちに語っています。それは、第一番目には、コリントの教会の人たちに、パウロやアポロなどの奉仕者がどういう立場であるのかを知って欲しかったからです。そして同時に、特定の働きを担っている人だけではなく、広く、主に仕えている人たちは、どんな自己理解を持つべきかを伝える目的もあったと思います。自らのアイデンティティの確認です。
 それはまず第一に、「キリストのしもべ」であると考えなさいということでした。新約聖書には、時々「しもべ」という表現がありますが、原語にはいくつかの言葉があり、少しずつニュアンスが異なっています。ここで使われている「しもべ」の語は「下で櫂をこぐ人」が原意と言われています。昔、ガレー船という帆を張って行くだけでなく、オール(櫂)がついた船がありました。その船底で、船員や奴隷たちが一生懸命に漕いでいたのです。つまり下働きをする人という意味です。
 この原語は新約聖書中、20回使われているのですが、新改訳では多くの箇所で「役人」と訳されています。だから、いわゆる奴隷というよりも、主人から様々な役割を与えられて働いた「しもべ」のことでしょう。英語ではサーヴァント(servant)と訳されることが多いようです。おそらく、ここでパウロが表現していることの強調は、主役はしもべではなく、主人であるキリストです、ということでしょう。主に従属し、仕えているのが自分であり、またそれがアポロやペテロといった働き人の自己理解ですよ、と伝えています。 
 二つ目の表現は、「神の奥義の管理者」です。まず、「管理者」ですが、これはギリシア語ではオイコノモスという言葉で、英語のエコノミー(経済)の語源となった言葉です。それは家の財産を含む一切の管理を行うハウス・マネージャーを表しています。英語ではスチュワード(steward)と訳されます。執事のように主人から信頼されて、一切の管理を任されているという意味で、一定の権限と責任を委ねられている人のことです。ですから、この「管理者」とは、権威と責任を受けているしもべです。
 ではその責任と役割は何に向けられるかと言えば「神の奥義」です。「神の奥義」はいろいろ深い内容を含んでいますが、ここでは簡単に神の言葉と理解すれば良いと思います。「奥義」は複数形で、英語ではミステリーズ(mysteries)です。神の諸々の言葉、計画、御心です。もちろん、その中心は「十字架につけられたイエス・キリスト」でした。


2,主に仕える人に求められていること(2節)

 次に、主に仕える人に求められる資質とは、何でしょうか。それは「忠実であること」です。これは意外に思われるかもしれません。主の奉仕者は、能力の高さや強さが求められると、考えがちです。しかし結局のところ、働く人に最も求められることは、聖書の言葉どおり「忠実であること」です。なぜなら、信頼こそが、仕事を任せる側にとっての大前提となるからです。どんなに能力が高くても、信頼を置くことができない人には、どんな仕事も安心して任せることができないからです。
 「忠実であること」と書かれている言葉は、原語では「信仰」と訳される言葉と親戚関係にある言葉です。英語の、faith(信仰)とfaithful(忠実な)との関係のようなものです。私たちの救い主キリストも、父なる神に対して、忠実あるいは信実であられました。私たちが神や、キリストに対して、信仰を持つということも、単に信頼を寄せるだけでなく、そこには忠実であることが含まれているのです。


3,主に仕える人に与えられる評価(3−5節)

 さて、最後に見るのは、評価ということです。これまで見てきたように、コリント教会の人たちによって、パウロはいろいろと言われていきたのです。「パウロにつく」という人たちからは好意的な評価だったでしょうし、他の人につくと言った人たちからの言葉は、辛辣な批評だったでしょう。パウロは言います。他人の評価は「非常に小さなこと」(3節)であると。もちろん、彼は人の判断や評価を無視するように勧めているのではありません。時に人々の評価は大切です。でも、それをすべてであるかのように受け取ってしまうと、その人は人間の奴隷となり、「キリストのしもべ」ではなくなってしまいます。
 私たちは人からの忠告や助言に大いに助けられますが、その全く逆に人の言葉によって、心に傷を負ってしまうことがあります。人の言葉や人の目にのみ振り回されることなく、しっかりと自分を保たなくてはなりません。「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。」(伝道者7:21)。また、自分で自分を評価することも無意味なことではありません。しかし、これもやはり人間の評価ですから、私たちはたやすく自己欺瞞の誤りに陥ります。自分を高く評価しすぎて高慢になったり、その反対に劣等感を抱いて卑屈になってしまいやすいのです。
 主に仕える人を正しく評価するのは、他人でも、社会でも、自分でもありません。私たちをさばくのは、神です。「ですから、あなたがたは、主が来られるまで、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。」(5節)。R.ヘイズは、この5節の言葉を「終末論的保留」と言いました。その評価や判定は、ちょっと待ちましょう、ということです。他人であっても、自分に対してであっても、簡単にレッテルを貼ってはいけない、主が来られるまで、待ちなさい、と聖書は言います。すばらしいことに、最後に届くのは、「称賛」と書いてあることです。厳しいさばきではなく、神からの称賛です。確かに、私たちそれぞれの人生の重荷、日々の行いや努力は、誰にも見えませんし、明らかにならずに人生が終わるでしょう。隠れているのです。けれども、隠れたところで神があなたを見ておられるのです(参照;マタイ6:4,6)。