「神の国の同労者たち」

コロサイ人への手紙 4:7ー18

礼拝メッセージ 2019.8.4 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,他の信仰者との交わりを通して、信仰の喜びを得る

多くの同労者とともに働いたパウロ

 コロサイ人への手紙も最後の箇所を迎えました。手紙の終わりは、あいさつのことばや個人的な指示、そして祝福の祈りで閉じられています。パウロの他の手紙と比較してこの書の終わり部分の特徴は、比較的多くの宣教の同労者について記述されていることです。ローマ人への手紙16章に似ていますが、この書のほうが一人ずつについて長く書かれています。個人名では、全部で10名の人たちの名前があります。ここに挙げられている人々との友情の絆がパウロにはありました。これを見てもわかるように、彼は決してワンマンプレーヤーではなかったのです。彼のそばには何人ものキリストにある同労者たちが常にいて、そのチームワークの中で主の宣教の働きが進められていました。これらの人たちをパウロが紹介して、あいさつのことばを長々と記しているのは、もしもこの人たちの存在がなければ、自分の働きは全く成り立たなかったことを証ししているのです。この箇所から、私たちもキリストを信頼して歩む信仰の道は一人で歩むものではないということ、伝道と宣教の働きは一人で行うものではないことをともに学んでいきたいと思います。

他の信仰者を通して受ける励まし

 ここに記されたことばによって、コロサイの教会に人たちは、囚われの身であるパウロが無事であることの安心と、パウロと同じく囚人となっている仲間たちの信仰の歩みを聞いて、大いに励ましを得ることができました。「あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです」(8節)。私たちは誰でもキリストを信じて歩むことの喜びを見失ったり、世の中のことに心惹かれて、信仰の恵みに生きる幸いを忘れてしまうことがあります。しかし、信仰を持っている他の人たちの生きている姿や歩みを知ることによって、自分の信仰生活を見つめ直すことができ、その喜びを取り戻すことができます。8節の「励まし」と、11節の「慰め」は、どちらも原語では同じパラカレオーです。傍らに(パラ)、呼び寄せて(カレオー)、慰めたり、助けたりするという意味のことばです。

他の信仰者の歩みを通して知る信仰の力

 さらに、このリストの中に、注目すべき二人の人物の名前があります。その一人は「オネシモ」(9節)です。詳細はピレモンへの手紙に記されていますが、彼は主人ピレモンのもとにいた奴隷でした。彼はピレモンに何かの損害を与えて逃亡し、やがてパウロと出会いました。パウロとの交わりを通して、彼は罪悔い改めて主を信じる者へと変えられました。9節でオネシモは「あなたがたの仲間の一人で、忠実な、愛する兄弟」と呼ばれています。ピレモンへの手紙では「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。」(ピレモン11〜12節)と記されています。
 もう一人は10節の「マルコ」です。マルコは、おそらく「マルコの福音書」を書いた人です。彼は第一回伝道旅行の際、バルナバとともに同行していましたが、途中で一人エルサレムに帰ってしまいました(使徒13:5,13)。そのことがあって第二回伝道旅行の際には彼を連れて行くかどうかで、パウロとバルナバとの間に意見の衝突が起こりました(使徒15:36〜41)。このようなパウロとの間柄であったマルコですが、10節で「このマルコについては、もし彼があなたがたのところに行ったら迎え入れるように、という指示をあなたがたはすでに受けています」と記されています。指示をしたのはパウロでしょう。そしてアリスタルコ、ユストと合わせてこの三人を「割礼を受けている人では、この三人だけが神の国のために働く私の同労者です。彼らは私にとって慰めになりました」と言っています。
 オネシモもマルコも、過去に何かの失敗や、あるいはそれによって誰かとの関係性が壊れた人物です。しかしパウロの手紙で明らかにされているように、御子キリストを通して神を信じる信仰は、どんな人でも、どんなことがあったとしても、それを乗り越えさせて立ち直らせ、神の国の働き手へと人間を改造し変革する力があることを明らかにしているのです。


2,他の信仰者との交わりを通して、祈りの必要性を知る

 第二に、主を信じている人たちとの交わりを通して、私たちは祈ることの大切さを教えられるのです。12節と13節に「エパフラス」のことが伝えられています。彼は1章7節にあったように、コロサイの教会を開拓した最初の働き人でした。エパフラスについてパウロが記していることばは、彼が祈りの人であるということです。「彼はいつも、あなたがたが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます」(12節)。「祈りに励んでいる」という表現は、直訳は「祈りの中で奮闘している」です。1章29節でパウロが「私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」の「奮闘する」と全く同じ語です。元々、この語はアスリートたちがレースを競うという意味でした。勝利の栄冠を勝ち取るために全力を尽くして戦うことなのです。祈りは神との交わりですが、ときにそれは神と格闘するようにして必死にすがりつき、忍耐の限りを尽くして執り成すような務めでもあります(創世記32:22〜32、マタイ26:36〜44、エペソ6:18〜20)。


3,他の信仰者との交わりを通して、宣教の情熱を得る

 第三に、信仰者との交わりは、私たちに宣教の情熱を呼び覚ませます。15節に「どうか、ラオディキアの兄弟たちに、またニンパと彼女の家にある教会に、よろしく伝えてください」と書いていますが、コロサイの教会の人たちにパウロが伝えたかった思いは、あなたがたが今している宣教の働きは、あなたがただけが孤軍奮闘している訳ではない、ラオディキアの兄弟たちも、ニンパと彼女の家にある教会の人たちも、そしてここに名を連ねた多くの主の働き人たちも、ともに戦っていることを忘れるな、ということです。7〜18節に書かれている人たちを見ると、情報が多くある人もそうでない人もいますが、キリストの教えを知らない世界にあって、日夜宣教の働きに奮闘していました。18節にあるようにそのことのゆえに投獄され、命の危険にさらされている人々がいました。このような信仰者の宣教の熱意と生き方は、私たちの心を強め、宣教の思いを新たにしてくれます。