創世記 25:1ー11
礼拝メッセージ 2019.2.24 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,死に至るまで神の約束に忠実に(1〜6節)
アブラハム175年の生涯
信仰の父と称されるアブラハムという人物の歩みを長らく見て来ましたが、本日の聖書箇所が最後のところとなりました。7節によると、アブラハムの生涯は175年でした。最近の統計では、現代日本人の平均寿命は男性が81歳、女性が87歳ということなので、それでいくと、およそその倍のライフタイムであったことになります。現代人に合わせて考えると、2で割って考えると想像しやすいかもしれません。
アブラハムの生涯を聖書の記録から振り返ると、彼は75歳まで父テラとともにハランで生活していた時がありました。そして75歳の時、神からの召命(コーリング)を受けて、主の約束を信じて生きる人生が始まりました。約束の子どもが与えられるとの御言葉を受けてカナンの地で、25年間その成就を待ちました。そして100歳で待望の息子イサクが与えられ、そのイサクとともに残りの人生を75年間生きたことになります。その後の記事から計算すると、彼の息子イサクが40歳でリベカと結婚したとき、アブラハムは140歳で、イサクから双子のエサウとヤコブが生まれた時、イサクは60歳で、父アブラハムは160歳ということになります。そういう意味ではアブラハムは孫の顔まで見ることができたのでした。
再び妻を迎えたアブラハム
1〜4節に、サラ亡き後、ケトラという人を妻に迎えたと思われる記事があります。これは時間順で考えなくても良いという解釈をする人もいますが、サラが死んだ後のことと考えるほうが自然です。そうすると、なぜ晩年になって、なおケトラを妻としたのかという疑問があります。イサクが生まれ、その前にイシュマエルも生まれたではないか、この上、どうして結婚したのか、という問いです。その理由は、アブラハムが死に至るまで、神の御言葉に従う信仰を持っていたからです。彼は、神から言われた約束を晩年になっても決して忘れることなく歩んでいたのです。その約束とは、「あなたは多くの国民の父となる」(17:4)です。「多くの国民の父」とされているという御言葉の応答が、ケトラとの結婚でした。「死に至るまで忠実でありなさい」(黙示録2:10)の言葉の如くアブラハムは歩みました。
次の時代に備えるアブラハム
今回、アブラハムの歩みを見て気づいたことは、彼が次の世代のことを考えて備えていたということでした。神から受けた約束の「多くの国民の父となる」ことと、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」(21:12)との間には少なからず緊張関係が存在しました。どちらの約束も神から出たことであり、アブラハムが信仰をもって受け止め、応答する責任がありました。そこで彼は、生まれた子どもたち同士の間で争うことにならないように、あるいは、約束の子として与えられたイサクが神のご計画に従って、祝福の道をまっすぐに進めるように配慮した備えをしています。5〜6節を見ると、「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかし、側女たちの子には贈り物を与え、自分が生きている間に、彼らを東の方、東方の国に行かせて、自分の子イサクから遠ざけた。」とあるとおりです。
2,死んでもなお神のご計画は続く(7〜11節)
死んで、自分の民に加えられる
8節「アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。そして自分の民に加えられた。」とあるとおり、人はいつか必ず死を迎えます。長命であったアブラハムも死から逃れられた訳ではありませんでした。しかし、その死ということについて、ここで「自分の民に加えられた」と表現していることに目が留まりました。この直接の意味は、先祖と同じお墓に収められることだと注解書に書いてありましたが、私はそれ以上の意味をこの表現に見ることができると思います。イエスは乞食のラザロの話の中で「しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた」(ルカ16:22)と言われ、「あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます」(マタイ8:11)と話されました。聖書は死後の世界について多くを語ってはいませんが、はっきりとわかることは、人は死んで終わりではないということです。新約聖書が示していることは、死の後にからだが復活するという希望です。そしてそれは信仰者の死はひとりだけで神に繋がり、神によって生かされるという個人的な希望ではなく、神の「民に加えられる」という神の国の集団的出来事なのです。神のご計画は、ひとりの信仰者が死んでも続きますし、その世代の信仰者たちが死んでも終わることはないのです。神のご計画は永遠に続くのです。
信じてそれで終わらない信仰
ここまでアブラハムの信仰について学んで来ましたが、信仰とは何であるのかを最後に確認して終わりたいと思います。信仰とは、ただ神を信じて救われてそれで全うされるものではないことがわかったと思います。アブラハムの生涯を見ると、信仰とは、信じて決断することであり、「行け」と言う声に従うことであり、待ち望むことであり、戦うことであり、忍耐し続けることであり、最も大切なものを捧げることであり、死が終わりではないことを知っていることでした。
使徒ペテロは、信仰を別の観点から表現しました。それは、信仰は信仰だけで完結すべきものでないことを明らかにしたのです。「だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ1:5〜7)。アブラハムの生涯が示した信仰は、まさにそのような成長していく信仰、深まりゆく信仰、年ごとに年輪を加えていくような信仰でした。
アブラハムの最初の召命の御言葉を読んで終わりたいと思います。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(12:1〜3)。