ヤコブの手紙 1:19ー27
礼拝メッセージ 2022.4.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,みことばを受け入れなさい(19〜21節)
聞くのに早く、語るのに遅く
信仰を生じさせるものが神のことば、みことばの力です。みことばそれ自体も、文字や音声として、あるいは人知れず心に語りかけられるものなので、かたちがあるものではないと思いますが、みことばを受け入れるという信仰は、目に見える、すなわち、私たちの生き方、生活の行動に現れるものであると語られます。ヤコブは、1章で、みことばのことを、例えば18節で「真理のことば」と表現しました。そして今日読んだ箇所では、21節「植えつけられたことば」、22節では「みことば」、23節では比喩的に「鏡」として書き、最後に25節では「自由をもたらす完全な律法」と、多様な表現で語りました。このように、この箇所では全体的に「みことば」ということが前提に語られています。そうすると、19節の「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい」という格言的な表現も、特に最初の二つは、みことばを「聞く」こと、あるいはみことばを「語る」ことと理解して良いでしょう。それでは、「聞くに早く」を、みことばを聞くことと考えると、それを早くするということは、みことばを聞くことを優先して、第一のことにしなさい、と受け取ることができます。パウロはローマ人への手紙で「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」(ローマ10:17)と記しています。
怒るのに遅く
それでは、「怒るのに遅く」とは、みことばとどう関係するのでしょうか。21節に「心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい」とありますが、この「素直に」ということばは、元のギリシア語では「柔和さ」や「穏やかさ」、「温和であること」の意味を持っています。つまり、なぜ「怒るのに遅くありなさい」なのかと言えば、怒りの感情を心に持ちながら、正しく神のことばを受け取ることはできないからです。ここの「怒り」ということばは、ある注解書の説明によれば、爆発するような怒りのことではなく、周りの人からは見過ごされやすい、くすぶっているような感情で、深い恨みのようなものを指しているということです。このことで思い出される聖書の出来事が、ルカの福音書10章38〜42節のベタニヤに住んでいた姉妹マルタとマリアの話でしょう。マルタは、イエスを懸命に接待しようと忙しく働くあまり、イエスの傍らでみことばに聞き入り、手伝いをしないマリアを非難しました。しかしイエスは言われました。「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました」(ルカ10:41〜42)。怒りを抱き、落ち着きを失った状態で、みことばはなかなか心に入ってきません。その後にあるように、この怒りは「すべての汚れやあふれる悪」(21節)に至るものです。人間的な怒りは、神の義を実現するものではないのです。怒りを遅らせ、心の汚れや悪を脱ぎ捨てて、心を神の前に落ち着かせて、ただ一つの大切なことである、みことばに集中しましょう。
2,みことばを行う人になりなさい(22〜27節)
自分を欺いてはいけません
22節からは、いろいろなことが書かれていますが、結論はやはり22節です。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません」ということです。
気をつけたいことばは、この「自分を欺く」という表現です。同様な表現が26節にも出てきます。みことばを聞いて信じない、実行しない、ということは、一見、その人の自由な意志の決断であり、選択のように思えますが、ヤコブは、神を求めている人、信じている人たちに語っているので、こう表現しています。「自分を欺く」というのは自分に嘘をついて騙している、ごまかしているということでしょう。なぜ、欺くことになるかと言えば、みことばを信じるならば、自然とそれに応答し、みことばに従って生きていきたいと思うようになるからです。みことばを行い、目に見えるものにすることは、苦しいことでも、難しいことでもなく、むしろ自然なことであるとヤコブは教えています。それを拒んだり、聞いていなかったように振る舞ったり、忘れたりすることのほうが、かえって不自然であり、心をごまかさないと何も聞かなかったようにはできないということです。
心に植えつけられたことば
21節では、みことばは私たちの「心に植えつけられた」ものと表現されています。これはどういうことなのでしょうか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあると旧約聖書は語り、パウロはそう言いました(ローマ10:8)。ある人たちは、この表現を、人の心の中にみことばがすでにあるのだと言いました。いつの間にか、神のことばは人々の心に植えつけられているのでしょうか。イエスは種を蒔く人のたとえをされました。そこで「種蒔く人は、みことばを蒔くのです」(マルコ4:14)と言われた通り、みことばを植物の種とする比喩はこれまでもありました。そのたとえでは、実を結ばず、枯れたり、取り去られたり、といったことも語られていましたが、ヤコブはここで、みことばはもうすでにあなたがたの心に植えつけられていると言っています。主が私たちの心に語りかけられ、植えつけられたみことばを抵抗せずに受け取り、行いという、目に見える収穫となるように、実を結んでいくように、それに従っていきましょう。
「みことばを行う人」と「ただ聞くだけの者」
この手紙の著者ヤコブという人が、主の兄弟ヤコブであると思われることの理由として、彼の記していることばに、イエスがお語りになられたことがありありと思い浮かべられるということがあります。この22節以降の「みことばを行う人」になるように勧められていることばも、イエスが山上の説教で話された結論を、読者はすぐに思い起こすことになります。「みことばを行う人」と「ただ聞くだけの者」という対比で描かれているからです。「みことばを行う人」のことを、イエスは「わたしのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人」と語り、「ただ聞くだけの者」のことを「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に家を建てた愚かな人」とたとえられました(マタイ7:24〜27)。岩の上でも、砂の上でも、平時はそこにどんな違いがあるのかわからないかもしれません。けれども、雨が降って洪水となり、風が吹いて来るような困難な状況が起こると、両者の違いは明らかになると言います。「あなたは、みことばを受け入れ、行う人になりますか、聞くだけの者で終わりますか」という決断を迫る問いかけがここになされているのです。