「神のいつくしみときびしさ」

ローマ人への手紙 11:11ー24

礼拝メッセージ 2018.1.21 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イスラエルがつまずいたのは、救いが異邦人に及ぶためであるという神の深い御心でした(11〜15節)

イスラエルのつまずきは倒れるためではなかった

 「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」(11節)と記されています。イスラエルの人々の救いについて、前のところで、彼らすべてが不従順になったわけではなく「バアルにひざをかがめていない男子七千人」がいると、希望の約束のことばをもって語っていました。しかし、いくらかの人々が救われると言っても、その他の大多数の者は倒れてしまうのだろうか、という疑問が残ります。そこでパウロは大胆にも「イスラエルはみな救われる」(26節)と宣言します。この結論に行く前に、なぜイスラエルが信仰においてつまずいてしまったのか、神のご目的はどこにあったのかについて、この11〜24節で明らかにしています。
 まず、第一番目に語られていることは、イスラエルのつまずきが、異邦人の富となったという神の深い御心です。これは、人間の論理的な考えの範囲をはるかに越えるものです。神による大逆転と言うべきでしょうか。第二に、イスラエルのつまずきを見て、救われた異邦人は決して誇ってはならないということです。なぜなら、私たち異邦人は、神の民イスラエルに接ぎ木された存在であるからです。

信仰のつまずきについて考える

 パウロがイスラエルを語るときには、彼らの信仰の従順や成長を笑顔で調子よく述べていくことはできませんでした。同胞イスラエルの多くの人たちが、イエスを主とする福音を受け取れていなかったからです。信仰のつまずき、というのは、教会ではあまり口にしにくいテーマです。救われた証しは聞きますが、つまずいたことを聞くことは難しいことです。しかし、だれでも信仰のつまずきは起こり得ることなので、否定的視点だけで見たり、さばいたりせず、その原因や回復の道を考えることは必要です。
 先日、教会の学び会(スコラ)で、明治から昭和にかけての日本の文学者たちとキリスト教との関わりを学びました。かなり多くの文人たちが、聖書を読み、キリスト教に触れ、ある人は洗礼を受けていたのですが、人生の途上で、信仰を捨て、教会に行かなくなっています。もちろん、生涯、信仰に留まった人たちもいます。以前は、それらの作家の本を読んでも一般的な感想だけだったのですが、最近は、ある作家に関しては、この人はキリストについてどう見ていたのか、聖書をどう読んでいたのか、あるいはなぜ教会を去って行ったのか、などの視点で読むと、信仰のつまずきについていろいろなことを教えられることがあります。
 本日の聖書箇所では、イスラエルのつまずきは、倒れてしまうこと、つまり滅びるためにつまずいたのではないことが明らかにされています。彼らの罪過、失敗によって、異邦人に救いが広がることになったのです。25節に「イスラエルの一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時まで」であると記されています(参照;ルカ21:24)。

失敗すらも、救いとし、富とし、善となさる神の逆転

 信仰をもって歩まれている方々は実感されていると思いますが、人間の罪、失敗、不義、不面目な出来事でさえも、神は、ご自分の御心の遂行のために益として用いられることがあります。神が選ばれたイスラエルであったのに、その彼らを通して、神は世界を祝福し、救いで満たすように計画されていたと思われるのに、選ばれた民がつまずいてしまったのです。
 本当は、彼らの失敗は取り返しのつかないものであり、神の御名を貶めるものになったと見えました。しかし、そうではなかったのです。確かにこの世にあっては、修正もリカバリーも不可能な事態や事柄はあります。でも、神は彼らの違反を世界の富とし、彼らの失敗を異邦人の富に変えてしまわれたのです。これは驚くべき神の大逆転と言えましょう。15節で「彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ること」と書いていますが、これこそ、神のなさる御業です。キリストの復活を信じることは、人間にはあり得ないこのような神の大逆転を信じることなのです。


2,イスラエルがつまずいたのを見て、救われた異邦人は決して誇ることはできません(15〜24節)

オリーブの木のたとえ

 17節からは、オリーブの木にたとえて、イスラエルの救い、異邦人の救い、という神のご計画を語っています。パウロはオリーブの木を接ぎ木する話をしていますが、私は園芸の知識がないので、インターネットでオリーブの接ぎ木について書いているブログを見ました。台木の枝を斜めに切って、さらに縦に切り込みを入れて、接ぎ木を差し込んで、テープで周囲を巻いていました。パウロの時代はどんなふうに行ったのかはわかりませんが、当時の人々には、わかりやすいたとえだったのでしょう。このたとえで明らかにされているのは、イスラエルと異邦人との関係です。元々のオリーブの木はイスラエルでした。そこに異邦人キリスト者が接ぎ木されたのです。そのように見ていくと、異邦人の信仰者たちは、イスラエルに接ぎ木された存在であり、元であるイスラエルが無ければ、彼らも主につながることはできなかったのです。しかも、イスラエルが折られてしまったのは不信仰ゆえであることを思うと、だれも自分を誇ったり、高ぶったりできず、むしろ、主の峻厳な態度を恐れなくてはならないはずです。

接ぎ木、いのちの繋がり

 この接ぎ木された存在というのは、日本で救われた者にとっては、わかりやすいたとえであると思います。キリスト教は西洋の宗教だと云う人がいるような国です。本当は西洋発祥ではなく、イスラエルですから東洋が起源です。でも、そのイスラエルに接ぎ木されたのは、まず周辺の国々の人たちや、ヨーロッパの人たちでした。そして大航海時代を経て、キリストを信じる信仰は、世界中に広がっていき、私たちの多くはメノナイト派を通して接ぎ木されました。私の理解では、旧約新約の歴史、そしてそれに続く長いキリスト教の歴史といった、間(あいだ)の歴史を飛ばして、自分の信仰を理解するということは、ここで言われている高ぶりになってしまうと気づきました。接ぎ木として、主のいのちに連なる民として、私たちは、長い歴史の中で、ある人々は信仰に、ある人々は不信仰に進んだという現実を知り、神のいつくしみときびしさを覚え、感謝と恐れ、へりくだりの思いをもって信仰の歩みを続けていかなければならないのです。