ローマ人への手紙 16:17ー27
礼拝メッセージ 2018.6.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,平和の神に仕え、従いなさい―警告の言葉(17〜23節)
分裂とつまずきから私たちを守られる平和の神
この手紙の終わりは、警告の言葉(17〜20節)、ローマ教会へのあいさつ(21〜23節)、祝福の祈り(25〜27節)となっています。この結びの言葉を見ると、神様について、2つの特徴的な言葉が出て来ます。1つは、今までも出て来ましたが「平和の神」です。2つ目は、「知恵に富む唯一の神」です。真ん中に挟まれたあいさつを抜くと、この2つの表現がパウロの別れの言葉を要約するものに思えます。分裂とつまずきをもたらす人たちの存在は、いつの時代、どこの国でもありました。ローマの教会にも、そのような暗闇のわざが忍び寄っていたのかもしれません。信仰生活というのは、神の力強い御手によって守られる歩みですが、不注意や無防備でいて良いわけではありません。つまずかないように、群れの間に分裂が起こらないように、注意深く自分の足元を確認し、キリストのからだとされたお互いのことを良く配慮する必要があります。
パウロは間違った教えの根本は、どこにあるのかをここで明らかにしています。18節の「主キリストにではなく、自分の欲望に仕えている」ということが、彼らの罪を明らかにしています。これは、信仰の土台、あるいは人生の基礎に直結している問いかけです。私たちは誰に仕えて生きているのか、ということです。ある牧師はこの12章以降全体を「何によって生きるか」というテーマでまとめています。誰のために、何のために、生きるのか、間違った教えを持ってくる人たちは、自分の欲望に仕えているだけなのです。でもそれは、たとい悪い教えに染まらなくても、神にではなく、自分の欲望に捕らえられて歩んでしまう危険は誰にでもあることを覚えておかなくてはなりません。ですから、パウロは私たちに勧めるのです。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」(12:1)。
私たちを用いて勝利される平和の神
19〜20節は、ローマの教会の神への従順に対する賞賛と、主にあって必ず勝利できるとの祈りの言葉です。「従順」の語は26節にも出て来ます。また、冒頭1章5節にも「信仰の従順」と記されていました。信仰は知識の量や経験ではなく、主に対して従順であるのかどうかが一番大切なことです。
確かに信仰の従順をもって歩んでいても、戦いや困難はあります。ここにあるように、「学んだ教えに背いて、分裂やつまずきをもたらす」ものからの、心の内側からの誘惑や、外側からの圧迫があるからです。しかし、ここに約束の言葉が続いています。「平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。」(20節)。目を留めたい御言葉の真理は「あなたがたの足の下で」というところです。平和の神が分裂とつまずきに対して、御力をもって悪魔を粉砕してくださいます。すべては神のなさる御業です。でも、それはほとんどいつも私たちを用いて為して行かれるということなのです。
2,知恵に富む神を賛美しなさい―頌栄の言葉(25〜27節)
福音とキリストの宣教の言葉で、私たちを強くされる神
最後の言葉である25〜27節は、神への祈り、賛美の言葉になっています。最近は言葉の難しさから、新しい方への配慮として、あえて使わないようにしているのですが、それは「頌栄」(しょうえい)と呼べるものです。英語では、doxology(ドクソロジー)です。それは神の栄光をたたえる言葉という意味です。長文で、少々難しい構成になっています。枝葉を取ってシンプルにすると「神に栄光がとこしえまでありますように」という賛美です。分解してみると、まず「神」について、2つの表現があります。「あなたがたを強くすることができる方」と「知恵に富む唯一の神」です。前半の「強くすることができる方」に対して、3つの強くするものが、つながっています。1つ目は、「私の福音」と「キリストを伝える宣教」です。2つ目は、「奥義の啓示」、3つ目は、「神の命令」です。この分解から、1つ目のことをまず見て、次に2つ目と3つ目を合わせて見ていきましょう。
神は、弱い私たちを強くしてくださいます。この「強くする」という語は、単に弱い者を強めるということではなく、「堅く立てる」とか、「ぐらつかないように固定する」という意味が原意です。それで新米標準訳(NASB)では、establish(設立する)と訳されています。神は私たちの信仰、教会、歩みが、ぐらついて倒れるようなことのないように、強固にしてくださるのです。では、どのようにしてでしょうか。それが、第一に、「私の福音」、「キリストを伝える宣教」によってなのです。
パウロは、別の箇所でも、「私の福音」と書いて、福音が何か自分の所有物であるかのように呼んでいます。しかし、これはパウロの高慢な思いから出たことではなく、それほど、福音に聞き、福音に生かされ、福音によって生きているというパウロの思いから出た表現です。少し言い方変えれば、福音を自分のものとできているかという投げかけにも聞こえます。誰でも福音を「私の福音」と呼ぶまでに、親しみ、満たされている必要があるのです。ルターは、多くのユニークな言葉を残していますが、福音の真理が表されたガラテヤ書のことを「私のケーテ(妻の愛称)」と呼んでいたそうです。このように福音をということに思いを向けることは、同時に「私たちの主イエス・キリスト」の宣教の言葉によって、真のいのちが与えられた者として、福音の宣教の働き手となっていくことにもつながっています。主はそのようにして、私たちを生かし、強め、堅く立っていけるようになさるのです。
今や明らかにされた奥義の啓示で、私たちを強くされる神
奥義とされていた啓示が、「今や明らかにされ」たのです。それがどんなにすばらしいものであるのかは、この書がこれまで述べてきたことで明らかです。「啓示」という語は、覆いを取って、秘儀であった内容を明らかに示すことを意味しています。本当に面白く、人を夢中にさせるものは、この世が提供する隠されたゴシップ(噂話)ではなく、神が覆いを取り払われたゴスペル(福音)なのです。
知恵に富む唯一の神のご計画に従ってイエス・キリストが世に来られて、「今や明らかにされた」奥義の啓示だけが「すべての異邦人に信仰の従順」という恵みにあふれた生き方を与えることができるのです。神の命令である、この奥義の啓示を通して、人は、神に栄光あれ、と心から神に賛美を捧げる者へと変えられるのです。