「神と王」

詩篇 21:1ー13

礼拝メッセージ 2023.4.30 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,人々がずっと求めてきた真の王とは

歴代の王たちを見つめてきた詩篇

 表題にあるように、ダビデがこの詩篇を書いたのかもしれません。そして、その後の歴代の王たちは、この詩篇を即位や記念の時に歌ったと考えられます。長い時代の中で、この詩篇がみことばとして王と民の前に立ち続け、それぞれの時代を見続けてきたとするなら、この詩篇は、沈黙する歴史の証言者のように感じられるのです。
 ダビデとソロモンの時代まで、イスラエルは統一王国でしたが、その後、国は北イスラエルと南ユダとに分裂してしまいました。南王国ユダだけを見ても、レハブアム、アビヤム、アサ、ヨシャパテ、ヨラムなど、バビロニアに滅ぼされるまで三百年余りにわたって二十人の王が立てられました。この詩篇は代々受け継がれて、新しい王が油注がれて即位する度毎に、「主よ、あなたの御力を王は喜びます。」(1節)、「王は、主に信頼しているので、いと高き方の恵みにあって揺るぎません。」(7節)と、祭司あるいは民が祝福の声を上げたのでしょう。
 主の御心に従い、正しい信仰の道を歩み、偶像礼拝を排除し、公正な政治を行い、勇敢に戦うことのできた王は、どれほどいたことでしょうか。「列王記」や「歴代誌」を読むと、しばしば愚かな王が立ち、偶像礼拝に流され、国は乱れました。そう思うと、この詩篇21篇の祈りのことばが式典で読まれる度に、次こそは義を行い、神に信頼してその御力によって敵を滅ぼし、私たちのこの国を正しく導いて欲しいという、民の切なる願いが込められて歌われたことでしょう。

義なる王を求める心

 残念ながら、神を悲しませ、民を落胆させることが繰り返されたのが旧約の歴史でした。主の教えから右にも左にもそれず、全き信頼をもって歩む王、何よりも国を公義をもって治める正しい心を持った人が求められてきたのです。しかしそれは現代の私たちも同じ気持ちだと思います。社会から悪が追い出され、不正が正しく罰せられ、戦争がなく、自由と平和を得て安心して暮らしていける世界、貧困やさまざまな差別が無くなり、すべての人が互いを受け入れて愛し合い、助け合う、そんな世界が実現することを誰もが望んでいます。
 でも、過去と現在を知っている私たちは、そんな理想的世界は実現するはずがなく、夢見るだけ無駄であると考えてしまいます。しかし聖書のことばに向き合うと、人間の罪や堕落の悲惨な現実が描かれる一方で、この世界を変えるために、私たちを救うために、神が働いておられること、そして必ず御国を打ち建てられるという強い主の御意志があることに気づきます。神はご自身が計画されていることをあきらめることもなく、挫折もせず、必ずや御心を成就なさいます。


2,私たちが待ち望むべき真の王とは

詩篇21篇の構造

 この詩篇の大きな枠組みは、1節と最後13節にある「御力」ということばで規定されています。さらに内側に向けて、同じ語や文章が配置され、交差配列的な構造(コンチェントリック)に作られています。
A. 1節 「御力」
 B. 3,5節「あなたは…置く」冠、威光、栄誉を
  C. 6節「あなたの顔とともに」楽しませる(「御前で」)
   D. 7節「王は 主に信頼している」
  C’ 9節「あなたの顔の時」怒りで呑み尽くす(「現れのとき」)
 B’ 12節「あなたは…置く」彼らの背を(「背を見せるようにし」)
A’ 13節 「御力」
 全体の中心点は、D.の7節で「王は 主に信頼している」ということになります。この7節を境にして、前半と後半に分かれています。前半部分は、主によって立てられた王に対して、主は冠を授け、御前で楽しみ喜ぶようにされると記します。後半は王に刃向かう敵に対して、主は王によってさばかれるようにし、彼らを呑み尽くされるのです。

詩篇が暗示する王ーキリスト

 このような構造分析から読み取れることは、人々が待ち望むべき支配者は、「主に信頼している王」であるということです。その王の到来を待ち望んで歩むことが必要であるということです。これが第一のことです。しかし、この願いは旧約時代には完全に実現しませんでした。この祈り求めたことを神は時満ちて叶えてくださいました。言うまでもなく、それはイエス・キリストのことです。主イエスは、この詩篇が語るところに完全に合致するところの油注がれた真の王でした。
 預言者ゼカリヤはこの王について次のように記しています。「見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。…わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。」(ゼカリヤ9:9〜10)。イエスがエルサレム入城される際に、マタイはこの預言の成就を心に留めて記しました(マタイ21:5)。
 主イエスが王、メシアとして来られ、十字架で私たちの罪を負い、贖い、死と罪とサタンに打ち勝ってくださいました。イエスは「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました。」(ルカ10:18)と言われたように、すでに世に勝ってくださいました。しかし、究極の勝利と完全な御救いはこれからです。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(ヘブル9:28)とあるとおりです。

真の王を待ち望んでいかに生きるか

 その二度目(再臨の時)を待っている間、私たちはどうすれば良いのでしょうか。それが、先程の構造分析から読み取れる第二のことになります。主に信頼する王を待ち望む私たち教会は、この希望を見失うことなく、その臣民あるいは家臣として生きていくことです。2節のとおりこの真の王が願われることや心の望みを、私たちにできるところから、それがいかに小さいことであっても、少しずつ実践していくことです。「テサロニケ人への手紙第一・第二」でパウロが切迫する主の来臨についてテサロニケの教会の人々に語っています。「動揺せず」、「慌てず」、ただ「落ち着いて生活しなさい」、「静かに仕事をしなさい」と。「どうせ終末となり再臨されるのだから」と言って「今」という時を怠惰な気持ちで過ごすべきではないと戒めています。そこで思い出したのが、ルターのことばとされる「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える。」でした。ふつうに考えれば、明日世界が終わるならば、実がなるのに数年かかるりんごの木を植えたって何の意味があるのかと思います。けれども、主を信頼する歩みにおいては決してそうではないのです。御前においては何も意味のないことはなく、その労苦が無駄になることはないのです(Ⅰコリント15:58)。