「神とともに歩む」

ミカ書 6:1-8

礼拝メッセージ 2020.5.10 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


主の告発

 主である神の告発が記されています。告発される者、訴えられる者は神の民(イスラエル)で、山々と地の基が証人となっています。もちろん比喩的な意味です。旧約聖書において、山や丘は神の自己啓示の場所とされます。地の基という表現は創造を連想させます。神の支配が被造物を通して明らかにされていくのです。
 神自身がイスラエルに行った救済の業に言及しています。まず、イスラエルのエジプトからの解放が語られます。この経験はイスラエルにとっては決定的で、神がイスラエルに味方しその危機において救い出すと言う理解へとつながっていきました。バラクとバラムについては、民数記22章に記されています。王バラクはバラムにイスラエルを呪うように命じますが、逆にバラムはイスラエルを祝福してしまいます。困難な荒野にあっても、神はイスラエルを祝福し続けたことを表現しています。最後にヨルダン川の渡河について記され、神のイスラエルに対する土地の約束が実現したことを証言し、神ヤハウェの忠実さを表わしています。神はイスラエルに恵みを与えましたが、イスラエルはその恵みに応えなかったのです。


神にいたる道

 6節からは預言者の言葉です。イスラエルが神に近づく道について記されています。神と人との出会いは、まずは宗教的な礼拝の機会が考えられます。神殿では多くの犠牲がささげられ、イスラエルの人々はそれなりの神への熱心(宗教心)をもって礼拝に参加したことでしょう。しかし、預言者ミカはそこに神との接点を求めていません。イスラエルが神ヤハウェに近づく道は、すでに告げられています。それは宗教的な礼拝行為ではなく、公義を行うこと、慈しみを愛すること、謙虚に神とともに歩むことです。ヤハウェによって救われその恵みに生きることであり、礼拝に限定されていません。むしろ、日常生活や社会生活の中にヤハウェに近づく道があることを語っています。


公義、慈しみ、謙虚

 本日の聖書箇所は、8節に集約されるでしょう。公義、慈しみ、謙虚、それは神とともに歩むことを意味しています。サンデー・クリスチャンは止めましょう、日々神への信仰をもって歩みましょう、はもちろん正しいメッセージです。しかし一つの罠があります。日曜の礼拝の形を週日の時間の一部に充てることがサンデー・クリスチャンから脱していることだと勘違いすることです。近年になってデヴォーション(個人礼拝)の大切さが訴えられます。でも、デヴォーションは真の神礼拝の目標ではなく、神とともに歩むことへ押し出されるスタートラインに過ぎません。神を信じ、神を礼拝するとは、聖書の言葉を私たちの生活に適用することではなく、聖書の言葉(その示す価値観)に私たちが生き、私たちの信仰生活、個人や家庭生活、社会生活が神の意思に従って変えられていくことです。
 その変えられていくこと(新約の言葉によれば、メタノイア、悔い改め/回心/変革)の基準は神が示している公義、慈しみ、謙虚です。公義は正しさにつながります。私たちにとって「正しさ」とは、物差しに合っていることでしょう。それに合っている者は祝福ですが、尺度に合っていない者は間違った人間ということで排除されます。聖書の神の「正しさ」は、苦しんでいる者をその苦しみから解放することです。他者に苦しみを与えている者に対してその言動を止めさせることです。聖書の神の裁きはここにあります。慈しみは、「神のようになろう」とする自己中心的な人間(個人レベルでも社会レベルでも)に対して、自らと交わりを持とうとする神の意思です。神は人々を招き、人々の生き方を変え、そこに人間として最も価値ある基本を与えようとします。それは、互いに尊重し合って生きていくことです。謙虚とは、自己のみが「正しい」とはしない生き方です。神は絶対的に正しい方なのに、自らの正しさを捨てて、人間を救済しようとされました。神のメタノイアともいうべき言葉は旧新約には多く残されています。神は人間を愛するゆえに、謙虚になられたのです。
 神のこのような生き方は、私たちの生き方の基盤を作ります。それこそが神への真の礼拝です。