使徒の働き 16:6ー10
礼拝メッセージ 2016.11.20 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神が私たちを導いている(6〜8節)
偶然や運命の気まぐれに弄ばれている訳ではありません
クリスチャンは「これは神様のお導きである」と言うことがありますが、それはどういうことなのでしょう。何か運命を信じるような、消極的で神任せのような信仰でしょうか。今回取り上げました聖書箇所は「神の導き」とは何かを教えてくれる内容です。クリスチャンの最初期の弟子たちが、福音を伝えるため地中海世界の町々を訪れ、旅をしました。パウロとシラス、テモテが、次はどこへ行くべきか、を神に祈りつつ求めていました。。
神の導きということについて、聖書全体が明らかにしていることは、神は偶然や時の流れに任せて、人間を放って置かれる方ではないということです。非人格的な偶然に支配されているとするなら、私たちの人生はなんと虚しいことでしょうか。使徒の働きを書いた人も、パウロ一行も、はっきりと持っていた確信は、天地万物すべてのものを造られた神が、すべてのものを支配しておられるということでした。時間も場所も人も全部です。神がご人格を持った聖なる方であり、そして愛と慈しみを持っておられる方であると知れば、私たちに対して、必ずや最善を行ってくださる、また確かな導きを与えてくださる、との思いをしっかりと持つことができます。
神の導きには、「ノー」(否定、不許可)という答えがしばしばあります
「彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った」(6節)。ルステラ、そしてイコニウムと来て、次に小アジアの西海岸の州である「アジヤ」に行こうとしましたが、それが禁じられました。それでガラテヤ地方に移動したのです。次に「こうしてムシヤに面した所に来たとき」(7節)とあり、かなり彼らは西へと進んでいたことが地図を見るとわかります。そして彼らの考えでは、そこから北東へ進んで行くことを考えたようです。けれども、それも許されず、また西に進む方向へ移動しました。
この「禁じられた」(6節)や「お許しにならなかった」(7節)はどういうかたちで起こったのでしょうか。残念ながら、聖書はそれを明らかにしていません。夢や幻で示されたのであれば、9節には書いているので、そう記したと思います。ですからおそらく、そういうことではなくて、何か行くことができない妨害や問題が起こったのだと考えられます。
一つ考えられることは向かって行く方向に何らかの障害があったということです。関所のようなところの通行許可がおりないとか、山賊がいて非常に危険であること等です。もう一つ考えられるのは、病気です。幾人かの学者が想定しており、私もその可能性が高いと思うのが、宣教チームリーダーのパウロが病気に罹ったのではないか、ということです。たとえば道が険しい方向へ進めず、むしろ静養の時間をいくらかとって、より移動しやすい方向へ進まざるを得なかったというような可能性です。パウロは聖書中の手紙に書いているように、病名はわかりませんが何かの病気を抱えていました(参照;ガラテヤ4:13−14、Ⅱコリント12:7−9)。そしてこの病気の治療のために呼ばれた医者がルカであったと考えられます。10節から、主語が3人称ではなく、「私たち」に変わります(これは一般に「私たち章句」と呼ばれています)。つまり、この時から筆者であるルカが、この伝道旅行に加わったのです。
こうしたことを考え合わせてみると、神の導きには「ノー No!」(否定、不許可)がしばしばありますが、それは私たちにとって、神の最善が行われる「ノー」であって、悲しんだり、落胆する必要がないことがわかります。そしてこの「禁止」が繰り返されてから、「行け Go!」という「肯定 Yes」としての道が開かれるのです。また、この禁止で道が閉ざされる中で、神はともに働くルカという仲間を彼らに与えてくださいました。医者ルカの働きは、後代の私たちには、特に歴史家としての彼の執筆(ルカの福音書と使徒の働き)によって大きな恵みを受けることとなりました。
2,神は私たちを招いています(9〜10節)
神の導きをどのようにして知り、確信できるでしょうか
9〜10節を見ると、否定や禁止ではなく、「行きなさい」という神の導きを彼らは受け取りました。それはパウロが、幻でマケドニヤ人の男が立って「渡って来て、私たちを助けてください」という声を聞いたことにより、神の導きを確信しました。この出来事そのもののあり方を、たとえば幻を見せられるという手段で、神が今日の私たちにも、ご自身の導きを知らせられると限定してしまうことは誤りであると思います。もちろん、神はいろいろな方法を用いて、ご自身の御心を示すことがおできになります。けれども、それを特別なあり方に限定してしまわないように注意したいと思います。この10節で「確信したからである」と訳されている言葉は、他の聖書箇所では同じギリシア語が、「証明する」「弁明する」「しっかり組み合わす」「結び合わす」等と訳されています。この語は、いろいろなことを考え合わせ、調べて判断するという意味です。ですから、おそらく幻の内容だけで、西に進むこと(マケドニヤ行き)を彼らが決断したのではないのです。多くの祈りと熟慮の末に、この幻が決定打になったのでしょう。
それに加えて、もう一つ重要なことは、パウロたちは、禁止、妨げが起こる中、それで落ち込んで止まることはなかったという点です。彼らは、祈り、考えながら、道が閉じられない限りは、進んで行きました。神の導きは、そういう意味ではパウロたちでさえもわからなかったのです。ですから、私たちにもすぐにはわからないことが多いのです。けれども、わからないから何もしないのではなく、神の導きを求めながら、最善がどこにあるのかを主に祈って問いながら、前に進んで行くのです。神がそこに「ノー」を示されれば、方向を転換すれば良いのです。
神は私たちを招いて、必要を持っている人々のところへ遣わされる
神が私たちをどこへ導いておられるのか、それは聖書を読めば、ある程度、実はわかります。それは様々な必要を持っている人たちのところです。「渡って来て、私たちを助けてください」と懇願する人々のところです。神は最終的には私たちを必要とされる人々のところへと招いていかれるのです(参照;ルカ4:25−26、エペソ2:10)。