「神が私たちとともにおられる」

マタイの福音書 1:18ー25

礼拝メッセージ 2025.12.21 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神の約束という希望の継承

 クリスマスの中心は、イエス・キリストの誕生を喜ぶことにあります。なぜなら、イエス・キリストは私たちのために生まれてくださった、私たちとともにおられるお方だからです。イエス・キリストの誕生はどうであったのか、そもそもイエス・キリストとはどんな人なのか、聖書の中にある四つの福音書がそのことをそれぞれの視点から描いています。今回読んでいるマタイの福音書は、キリストの系図で始まっています。
 1章1節からざっと見ただけでは名前の羅列に見えますが、よく読むと「(誰それが誰々)を生んだ」と繰り返し書かれています。マタイが「生んだ」ということばを繰り返して表現したことには、そう言い表す必要があり、またそこに込められた意味があったと思います。
 人が生まれるということは、とてもつもなく大きなことです。一人の人の存在はかけがえのない大切なものだからです。もしアブラハムという人が生まなければイサクの存在はなかったし、イサクが生まれていなければヤコブもいなかった事になってしまいます。これらの人々が生まれ、それぞれの人生を歩み、そして死んで、また次の世代へと続いていく。そのようにして神の民が生み出され、その歴史が形造られていったのです。
 この系図で強調されていることは、何よりもイエスが「アブラハムの子、ダビデの子」であるという点です。系図にあるこれらの人々が生まれ、次の人々が誕生していくという流れの中で、神がアブラハムに、そしてダビデに約束された契約ということが、彼らのうちに代々引き継がれていきました。つまり、神の約束、神のことばがそこにありました。これは言わば、神の約束という希望の灯を時代を超えて継承していく聖火リレーのようなものでした。そしてその引き継がれていった歴史の先にイエス・キリストが誕生してくださったということです。


2,私たちを罪から救うために来られた王

 18節「イエス・キリストの誕生は次のようであった」と書いています。「キリスト」とは「油注がれた者」という意味のギリシア語です。それは王、皇帝、支配者、統治者を意味しています。しかも、この王は、世に存在するどんな支配者とも明らかに異なっていたことがここに述べられています。それが18節以降に、二つ出てきます。第一に、彼は罪からの救いを与えるために来られた方であるということです。第二は、神が私たちとともにおられることを示すお方であったということです。それらのことが、聖霊によってマリアの胎内に宿ることによって起こったということ、すなわち、処女降誕ということです。
 第一は、この「油注がれた者」である王は、ご自分の民をその罪から救うために来られたということです。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」(21節)。ここに新約聖書で初めて「罪」ということばが出てきます。罪とは、私たち人間の行為や態度、性質において、神の願われることに従わず、失敗することです。そこには神に反抗する悪しき動機が隠れています。
 2節から16節の系図を改めて見れば、神に選ばれ、愛され、導かれたはずの人々が行為、態度、性質において、神の御心に沿うことができず、失敗したことを示しています。彼らは神の律法に従うことをせず、主の道から逸れてしまったのです。しかもどれだけ時代を重ねても、善悪の高低差はあったにしろ、罪と不幸の連鎖は断ち切れなかったし、何も起こらずに時代が過ぎて行ったかに見えました。
 そこで「民をその罪からお救いになる」方が来られる必要がありました。それを成就するため、罪のなきお方の誕生が必要でしたが、真の王となるためには、地上に生きる人間であらねばなりません。それが16節です。「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった」。これまでの文章にあったように「ヤコブがヨセフを生み、ヨセフがイエスを生んだ」とはならなかったのです。イエスはマリアから生まれましたが、生物学的にはヨセフから生まれたのではないからです。それが18節と20節にある処女降誕(処女懐胎)です。自然法則を超えるような特別な方法で、神は御子を世に遣わされました。人知では計り知れないかたちで、この王は来られました。神がそうされたのは、「民をその罪からお救いになる」ためでした。その名前は「救い」を意味する「イエス」でした。


3,神が私たちとともにおられることを示す王

 二つ目に、イエスがこれまでもこれからも世にあるどんな王とも異なっているのは、この方は「神が私たちとともにおられる」(インマヌエル)ことを明示する方だということです。ヨセフとマリアの上に起こったことを考えましょう。婚約中に妊娠するというのは、現代ではあまり問題視されないかもしれませんが、古代ユダヤにおいては大きな問題でした。しかもそれが婚約者の子ではないということになると、離縁されてそれで終わりではなく、晒し者にされ、地域から排斥されてしまうことになりかねないことでした。
 系図にはタマルなど数名の女性の名前が挙げられていましたが、それが16節まで続くとして見ると、系図の最後に登場するのがその「マリア」です。彼女たちは、すべて不都合や不名誉をこの世で味わうことになった女性たちです。その懐妊が「聖霊による」ことを知っていたのはマリア本人と、あとでお告げを受けたヨセフだけでした。福音書の中に、マリアが婚外妊娠をしたとして、またイエスは誰の子であるのかわからないとして揶揄されているかに見える表現があります(マルコ6:3)。ヨセフもマリアもこのことに大いに苦しみました。婚約中の若い二人がたいへん不都合な中に、苦しい状況に置かれたのです。
 しかし、それをヨセフが受け入れ、勇気ある決断ができたのは、誕生する子が「インマヌエル」であることを知ったからでしょう。「インマヌ」とは「私たちとともに」、「エル」は「神」です。私たちとともに神がおられる。それがマリアにもヨセフにもわかったから、困難を乗り越えていくことができました。ヨセフもマリアもたいへんだったが、神が彼らとともにおられたんだなあとここを読んで終わるなら、それは「インマヌエル」ではなく、「インマへメール」(彼らとともに神が)となってしまいます。
 罪ある世界に生きていかねばならない私たちにとっても、いろいろな不都合、苦しみ、困難があります。しかし、この福音書に描かれるイエスを見てください。このお方の降誕、公生涯、十字架と復活を。そのすべてに神が見えます。このお方から自分の人生とこの世界を見てください。神がおられることがわかります。神は遠く離れておられるのではなく、ともにおられる方であることがわかるはずです。主は初めに、マリアの胎のうちに小さな小さな存在として宿られて、実にインマヌエルという新世紀が始まったのです。