「神が望んでおられること」

テサロニケ人への手紙 第一 5:12-28

礼拝メッセージ 2024.4.14 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神が望んでおられることと人間の幸せ

 現代の世界は、徹底して人間を中心とする考え方になっています。さらに言えば、ひじょうに個人主義的で、私中心の生き方が最も良いこととして肯定されています。ですから、「自分の生き方も幸せも、自分で決める」と考えておられる方が多いのではないかと思います。しかし、聖書は人間の真の「幸福」は、神からの「祝福」によるものであるとはっきりと教えています。神が人間を創造した方であるから、神が人間の本当の生きる目的と使命、そして幸せを知っておられるし、それを与えてくださるということです。人の心の中には、罪や肉の欲望というものがあって、正しく幸せのゴールに向かって歩んで行くことができず、しばしば道を外れてしまうのです。そういうわけで、私たち人間に「神が望んでおられること」こそ、私たちを幸せに導く確実な道であり、それが遠回りに思えたとしても最短コースなのです。
 聖書には神が望んでおられる人間の生き方について、申命記10章12節から13節、またミカ書6章8節などに書いていますが、ここでパウロがさらにそのことを別の表現によって告げています。この12節から終わりの28節まで広げて見ていくと、内容は大きく三つに分けられます。その区切りとなることばが「兄弟たちよ」(12、14、25節)です。
 第一の区分は12節から13節で、ここには教会においての主の働き人と信徒との関係が平和に保たれるように勧められています。注意したいのは「教会」ということにフォーカスが当てられていることです。後にパウロが記した通り、教会は「神の家」、「真理の柱と土台」です(Ⅰテモテ3:15)。そこで、真理の発信基地である教会で大事なことは、教会のリーダーと教会に集う一人ひとりが力を合わせていくことが必要だということです。もしその関係が崩れると、神の教会は本来の力を発揮できません。ですので、パウロは最初にそれを述べたのでしょう。そして、次の区分は、14節から24節です。ここが今日の箇所の中心となるところです。そして最後の区分が25節から28節で、手紙の結びのことばとなっています。


2,神が望んでおられることは、誰でも・いつでも・すべてのこと

 誰でも

 この箇所の中心の14節から22節にあるパウロを通しての神からの訓戒は、三つのことばにまとめられることがわかりました。それは「誰でも・いつでも・すべてのこと」です。「誰でも」とはどんな人にも、すべての人に対してということです。そして「いつも」というのは、どんな時にも、いかなる場合にもということです。三番目の「すべてのこと」は、あらゆることをしっかり見るということです。「人・時・事」の三つにおいて、これらの訓戒には、何の条件も、例外もなし、ということです。
 まず14節と15節には「怠惰な者」、「小心な者」、「弱い者」、「すべての人」という表現があります。神が望まれる生き方は「誰に対しても…すべての人に対して…善を行う」ことです。誰に対しても善を施すことはたいへんなことだと思います。けれども究極においては「善を行うように努める」のです。この命令を覚える際、気をつけたいことが二つあります。一つは、されど限界を感じる場合は主に委ねることもあるということです。もう一つは、自分が世話をし、寛容を持たねばならない側にいるという自覚を持つことです。自分が受ける側に回って、他の人を批判するなら、この命令を逆さまに聞いていることになります。

いつでも

 次の16節から18節では「いつも」、「絶えず」、「すべてのことにおいて」と、やはりこの前の箇所の「誰にも」、「すべての人に」と同じように、「いつも」、「すべて」ということで条件が一切取り払われています。どんな場合にも、私たちは喜び、祈り、感謝します。それは、嬉しい時だけでなく、悲しみの時にも、ということであり、順境ばかりでなく、逆境においても、病気や貧しさ等、苦難のトンネルを通っている中でも、ということです。
 神谷美恵子さんが『生きがい』という本でこんなことを述べています。「…世の中には、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。」 神谷さんが長島愛生園で調査をしたとき、多くの方々が人生に無意味感を持っていたようですが、少数ですが次のように答えた方があったそうです。「人を愛し、おのが生命を大切に、ますますなりたい。これは人間の望みだ、目的だ、と思う」(『生きがいについて』みすず書房)と。その方がキリスト者だったのかどうかはわかりませんが、それは「神が望まれる」生き方に近いと思いました。

すべてのこと

 三番目のところを見ましょう。それは19節から22節です。ここは、一言で言えば、「すべてを見なさい」「すべてのことを吟味しなさい」ということです。御霊を消すことも、預言を軽んじることも、しっかりと神の御心と導きを悟れていないということです。御霊のお働き、「預言」というみことばの力を無視したり、押さえつけてはいけないのです。それと同時に、21節と22節にあるように、何でも御霊のわざと考えたり、みことばが語られているから良いということではありません。それが主からのものなのか、試さなくてはなりません。悪しき者も働いています。霊的洞察力が求められます。私たちはすべてのことを注意深く見ていかなくてはならないのです。


3,神が望んでおられる生き方を可能にする動機

 これらの生き方の命令は、人間的な常識で考えると、どれもハードルが高く、一見不可能に思える命令です。そこで注目すべきは23節と24節です。23節には、これまで確認してきたギリシア語の「パルーシア」(来臨)が出てきます。「あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、…キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。」とあります。「来臨」(パルーシア)は、キリストが再び私たちのところに王として会いに訪れてくださることです。その「主の日」に裁きと決算がなされるのです。ゆえに、私たちは「神が望まれる」生き方を、今もこれからも追求していかなくてはならないのです。さらに24節にはこうあります。「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます」。新約学者N.T.ライトが司祭として叙階されたとき、家族や友人等からカードや手紙を受け取ったそうです。その中に24節のギリシア語のことば「ピストス・ホ・カローン」の文字があったそうです。それを今もずっと心に留めて歩んでいると書いていました。「ピストス・ホ・カローン」とは、「ピストス」は「真実」、「ホ・カローン」は「召している方」という意味です。あなたがたを「召した方は真実である」ということです。主は決して裏切ることも騙すこともない、全く真実なお方であるから、私たちは迷うことなく、恐れることなく、この命令の数々を「アーメン」と言って、それに従うことができるのです。