「祝福泥棒」

創世記 27:1ー29

礼拝メッセージ 2019.9.22 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神の祝福を約束された不幸な家庭

 レフ・トルストイは小説『アンナ・カレーニナ』の冒頭で「幸福な家庭はどれも似たようなものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」と書きましたが、私たちが聖書箇所として読んでいるイサクの家族も、独特な問題を抱えた家庭として描かれています。父イサク、母リベカ、長男エサウ、次男ヤコブの四人家族です。この小さな家族は神の恵みを受け、祖父アブラハム以来、大切な神の約束を受け継いでいく一族として存在していました。神の人類に対するご計画がどう進んでいくか、その成否はこの家族の歩みにかかっていたと言っても良いでしょう。27章に描かれている話は少人数の出演者で上演される劇のように四人の登場人物が出て来て、それぞれの個性を発揮しながら、非常に人間臭い、どこにでも起こりそうなドロドロとした人間の醜い欲望がむき出しの姿で表現されています。聖書は、他の人を騙したり、嘘をついたりすること、それによって何かの利益を得ることを認めていませんし、またそのような不正行為がすべて罪であることを明確に語っています(参照;出エジプト20:16、レビ19:35、箴言20:17など)。ただ聖書は、信仰をきれいごとや美談で飾ることはしないのです。むしろ、人間の罪や失敗をリアルに暴き出して私たちに見せてくれます。


2,神の祝福をめぐって明らかとなる人間の罪

神のみこころを回避したイサクの罪

 1節「イサクが年をとり、目がかすんでよく見えなくなったときのことである」と書いていて、彼が老年で、しかも地上の生涯が残り少ない状態にあったことがわかります。イサクはその父アブラハムの信仰によって誕生したような人物でした。アブラハムから多くの信仰のことばを教えられて育って来たはずです。そしてイサク自身、念願の子どもが与えられたとき、彼はリベカを通じてかどうかはわかりませんが、「兄が弟に仕える」という預言を知っていたはずです。しかし彼は神のみこころを知りながら、兄のエサウを選びました。リベカも説得したかもしれませんが、頑固にそれを拒絶していたのかもしれません。自分の願いや考えを優先し、それに固く執着してしまったゆえに、彼は神のみこころを飛び越え、あるいは忘れて、罪を犯してしまったのです。「エサウを退け、ヤコブを選んでいる」との御声にフタをしてしまったのでした。老年になっての頑固さと愚かさが、神を信じる信仰による家庭を壊してしまうというひどい結果を招きました。

神の時を待たずに動いたリベカの罪

 母であり、妻であったリベカですが、この話の中でもっともやり手で狡猾な印象を与えます。彼女は、祝福を受けるのはエサウではなくヤコブであるとの神のみこころを知っていたのですが、何事にも現実主義的であったためか、あるいは夫イサクに説得することをあきらめた上でのことなのかわかりませんが、現実的な手段に打って出てしまいました。ちょうど、アブラハムの妻サラが、跡取りが生まれないことにあせってしまい、側室としてハガルを夫に与えたことに似ています。確かにリベカは神のみこころを見る方向は正しかったのです。しかし、この時にもしエサウがイサクによって祝福されてしまったらどうなったのかという疑問は残るとしても、彼女は神の時を待って、神の良しとされるあり方でみこころに従うべきでした。結局、この事件をきっかけに、エサウはヤコブに対して激しい憎悪の念を抱くことになり、リベカもエサウとの関係はさらに悪くなったことでしょう。しかも愛していた息子ヤコブは兄ラバンのもとに逃し、それ以降、二度とヤコブと顔を合わせることがきなかったのです。

神の祝福を悪い手段で獲得したヤコブの罪

 母リベカから命じられるままに動いたヤコブは、それが全く悪いやり方であるとの思いはなかったように思えます。長子の権利をすでに、兄エサウの空腹時に乗じて、それを獲得したと考えていたからでしょう(25:29〜34)。ヤコブがこのように自分がエサウであると偽って父を欺くという、手段を選ばぬやり方で祝福を奪ってしまったこと、まさに祝福泥棒であったことが、彼の罪でした。そしてそのような生き方が彼のこれからの人生で、自らを苦しめていくことになります。嘘をついて手に入れた祝福が彼を長く逃亡者にしてしまったし、父を騙した報いとして、後には自分が騙されてつらい目に会うことになってしまいます。

神の祝福を軽んじたエサウの罪

 もちろん、エサウについてもその罪は示されています。神のみこころと祝福を軽んじ、自分の都合でいつでも受け取れるかのように祝福というものを見ていました(25:34)。自分が神から、信仰の家族として期待されていることを無視し、自分の思うように歩んでいたようにも見えます。「エサウは四十歳になって、ヒッタイト人ベエリの娘ユディトと、ヒッタイト人エロンの娘バセマテを妻に迎えた。彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。」(26:34〜35)。


3,神の祝福が持つ力と導き

神の祝福を人間は操作することができない

 見方を変えて読むと、イサクから受け継がれる神の祝福そのものが、実際はこの話全体を支配している真の主人公のように感じられます。祝福をめぐって起こったことは、それを違う相手に渡そうとする人、手段を選ばず騙してでもそれを奪おうとする人、それを受け損ねて怒って炎上する人、というように、人々は祝福に翻弄されています。そして明らかにここで示されていることは、祝福を得たいという人間の願望や、そのための人間の策略や行為によって、祝福は得られるものではないということです。神の祝福は人間が自由に得たり、操ったりすることができないものです。

神の祝福は人間の考えを超えて働く

 神の祝福はここから意外な展開をこの家族にもたらすことになります。祝福を得たかに見えたヤコブは、この後、祝福泥棒の逃走者としてたいへん厳しい歳月を送らねばなりませんでした。こんなことなら、祝福なんか追いかけないほうが良かったのではと、一見すると思うかもしれませんが、そうではなく、祝福の力がそれを求める者を、祝福にふさわしい人へと変えていくのです。