「礼拝者の歩む道」

詩篇 26:1ー12

礼拝メッセージ 2023.6.11 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,私を調べ、精錬してください(1〜3節)

私を裁いてください

 詩篇26篇は、注解書によると「個人の嘆きの歌」に分類され、「神殿入場の準備儀礼」を想定する人もいます。「神殿儀礼」や「嘆き」の側面は感じますが、それとともに、信仰者のたましいの深い真実が、多面的に描かれていることに驚きの思いを持ちます。冒頭には「主よ、私を弁護してください」(1節)とあります。「弁護してください」はストレートに表現すると「裁いてください」ということです(「口語訳」、「聖書協会共同訳」)。「新改訳」がこのように訳したのは、「裁く」という日本語が、正しい判断や判決というよりも「断罪する」というニュアンスとして受け取られやすいからでしょう。それにしても、いきなり「私を裁いてください」と祈り、そして「私を調べてください」、「試みてください」、「精錬してください」という願いは、祈りにおいて私たちの口からあまり出て来ないものではないかと思います。

祈りは危険な冒険でもある

 しかし、それは神への祈りというものが、習慣的に型通りのことばを並べるだけで終わらせられないような、偉大な神との交わりであることを明らかにしています。祈りは、すべてのものを生かしも殺しもできる、恐るべき生ける神の御前に出ることなのです。E.H.ピーターソン師は「祈りとは、…神の鋭い生きた言葉に応答して、私たち人間の言葉を語るというきわめて大胆な冒険である。」と述べ、さらに「祈りはほとんどいつも〈私たちが欲していること〉ではなく、むしろ私たちの利益と矛盾するように見える〈神が欲していること〉に私たちを関わらせる。」と書いています(『牧会者の神学』日本基督教団出版局)。だから、祈りは聖なる方の前に引き出される危険なものであり、ライオンの穴に入り込むような行為であるとさえ言っています。2節の「調べ、…精錬してください」は、ヘブライ語の「バーハン」(調べる)と「ツァーラフ」(精錬する)はワードペアでしばしば出て来る単語で、これらは「金属の品質検査」を意味します。「ツァーラフ」は、精錬するために金属を溶かすという意味です。たとえばどれくらいの割合で「金」が含まれているのか、品質を確認するために溶かして調べたようです。また、不純物を取り除けるためでもありました(O.ケール著『旧約聖書の象徴世界』教文館)。(参照;詩篇66:10、ヨブ23:10)

神の御前に出るということ

 1〜2節などのことばから、詩人がいかに真剣に主の御前に出て、訴え、願っていたのかがわかります。「私は誠実に歩みました」(1節)と彼が語っていることや、この「裁いてください」や「精錬してください」(2節)という祈りが、あまりにも大胆に感じて、彼の姿勢が高慢に見えるかもしれません。しかし、ここに詩人の神の御前に出るということの必死の覚悟が表されているのです。それは神がこの自分を取り扱い、鍛錬し、変えてくださいとの真実な思いです。2節の「私の心の深みまで」は、直訳すると「私の腎臓と私の心臓」であり、現代的なイメージに勝手に置き換えるならば、「私の内蔵を精密検査して徹底的に調べ、悪いところがあれば手術して治してください」ということでしょうか。神の御前で、私たちは、「手術台の上の患者」、「まな板の鯉」です(参照;ヘブル4:12〜13)。


2,悪しき者とともに座りません(3〜12節)

歩まず、立たず、座らず

 さて、3節以降に目を留めましょう。ここから、「歩む」、「行く」、「座る」という動作を表すことばが出て来ます。それとともに、「不真実な人」、「偽善者」、「悪を行う者」、「悪しき者」、「罪人」、「人の血を流す者」といった、不義を行う神に敵対する人々のことが書かれています。これは詩人がどのような状況の中で、生活していたのかを示しています。主を愛して賛美している集いに属していた彼でしたが、同時に、神に従わない不敬虔な人たちに囲まれて生活をしていたということです。この「歩む」、「行く」、「座る」は、詩篇1篇を思い出させます。「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人」(詩篇1:1)は幸いであり、「その人は流れのほとりに植えられた木」(同1:3)のようであると歌われていました。26篇では、「私は不真実な人とともに座らず、偽善者とともに行きません。悪を行う者の集まりを憎み、悪しき者とともに座りません。」(4〜5節)と書いて、詩人のきよい生き方を証ししていますし、決意表明のようにも見えます。

不真実な人、偽善者たちに囲まれて

 ここで表現されている「不真実な人」や「偽善者」とは、何も凶悪犯罪者のことを言っているわけではないと思います。ある説教者が述べているように、私たちの生活している周りには悪を行っている人々が実際は多くいます。ビジネスで競争のために他人を騙すことを何とも思わない人、ライバルに勝つために嘘の情報を流し続ける人、隠れて不倫したり性的な不道徳を行っている人たちのことです。こうした悪を行っている人々と座をともにせず、距離を置くことは簡単なことではありませんし、それを避けようとすれば、自分だけはきよくて他の人々よりも優れているという誤ったパリサイズムに陥ってしまう危険もあります。
現代社会は高度で複雑であり、明確に白黒を判断できることはそれほど多くはないかもしれません。真理の道を歩みたいと願いながら、実は搾取側、圧迫する側に自分が立っていることに気づき、唖然とすることもあるでしょう。詩篇を学び教えられることは、知らず知らずのうちに自分が世に流され、多数に従うことで自らの義を立てようと自分をごまかしてはいないだろうか、ということです。

敬虔に生きようと願う者はみな迫害を受ける

 というのは、多くの詩篇作者たちは、迫害され、圧迫を受け、苦しみながら神に助けを祈っています。彼らがなぜ苦しまねばならなかったのか、それは一面において、彼らが真理の道、義の道を歩み続けていたからにほかなりません。信仰をもって歩んでいるならば、そこには世との緊張がどこかにあり、社会や人との間で摩擦や軋轢が生じて、信仰ゆえの痛みや苦しみの経験するはずですが、そうしたことをあまり感じられないように思います。パウロは言います。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)。主は言われました。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。」(マタイ10:34〜35)。
 主を愛し、感謝し、賛美を捧げる礼拝者としての歩みは、この世の価値観とは相容れず、ときに不都合で苦しみを抱えることになる結果に導かれることを、聖書は教えているのです。だからこそ、この詩篇が祈ったように、「私を贖い出してください。あわれんでください。」(11節)と主に拠り頼み祈る必要があるのです。