ヨハネの福音書 8:31-47
礼拝メッセージ 2025.8.17 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
自由をめぐって
イエスとイエスを信じたユダヤ人との論争が始まりました。ここでは、自らの誇りにしがみつくだけで神の意思を無視する人々(イエスを信じたユダヤ人)と、そのような人々を糾弾するイエスの姿を見ることができます。
イエスは、真理は罪による束縛からの解放をもたらすと述べます。しかし、ユダヤ人たちは自由という言葉にこだわり、自分たちは奴隷ではないと反論します。ここで両者の議論が早くも、かみ合わなくなります。
父をめぐって
「父」という言葉が登場します。しかし、よく読んでいかないと、それぞれの言葉としての「父」が指示している相手が違います。イエスが自らの父と呼んでいるのは「神」です。ユダヤ人たちが自らの「父」と呼んでいるのは「アブラハム」であり、やはり「神」です。しかし、イエスを殺そうとするユダヤ人の「父」は「悪魔」であると、イエスは厳しい言葉で言うのです。これは、かなり厳しい侮辱的な言葉であります。イエスを信じるユダヤ人たちの内実は(本人たちも気が付いていないのかも知れませんが)、イエスに敵対する者であり、神の従わない者であるということです。イエスは自らを信じる者に対して、彼らは本当はイエスを信じていないことを明らかにしたのです。
真理による自由
真理による自由とは何でしょうか?印象的な言葉であり、聖書を愛する多くの人々が記憶している言葉です。本日の聖書箇所の冒頭には、明確に罪による束縛からの自由が述べられています。これをユダヤ人たちは勘違いして奴隷制度の話へと展開し、イエスとユダヤ人たちとの論争は、いつもの通り、かみ合わなくなるのです。
ヨハネ福音書でも罪という言葉は、律法違反や神の命令に従っていない状態を表わしていることが多いようです。ユダヤ人は神を信じていたし、その熱心さはキリスト者を凌ぐと言っても過言ではありません。しかし、そのような人々が罪の奴隷であるということは、彼らが神の意思に適っていない、その熱心さが間違った方向にあることを示しています。ヨハネ福音書では、人々のイエスに対する姿勢、つまりイエスを信頼して生きていくのか、あるいはイエスを否んで生きていくのか、ここが罪からの解放あるいは真理による自由を経験できるかどうか、その「基準」となっています。人々はイエスが神によって遣わされた者かどうか戸惑います。弟子たちも例外ではありません。しかし、イエスの生き方、その言動が神の意思を指し示していることをイエスは自己証言しています。神ご自身もそれを証言しているとイエスは語ります。つまり、イエスに信頼し従う生き方、イエスが示す人間のあり方を求める者が自由を経験するとうことです。伝統にとらわれて神の恵みの業を見ることができないことからの自由、自己に捕らわれ利益を独占しようと試みることからの自由、他者を傷つけなくて良い自由、他者との関係の破綻を謝罪し和解する自由、イエスは他者も自分をも苦しめ、滅びに至る束縛から私たちに解放をもたらすのです。イエスを信頼して生きることは救いであり、命をもたらします。それは、イエスの言葉に従う生き方を求め始める道であることを意味しています。私がイエスの恵み救いを独占するという発想では、イエスの真意(真理)によって自由にされたとは言えないのです。イエスを通した神の意思の実現というすばらしい自由を経験したいのです。