ルカの福音書 10:30ー37
礼拝メッセージ 2015.11.29 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,「強盗に襲われた人」のうちに人間の (危機)的状況が示されています
ある人(文脈からユダヤ人)が「エルサレムからエリコへ下る道」を歩いていました。エルサレムからエリコまで約27キロの距離、エルサレムは山地で落差が千メートル以上ある険しい下りの道です。しかし突然、不幸が彼を襲いました。強盗どもがこの人に目をつけ、隙を見て襲いかかったのです。「着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しに」したのです。別の文脈ではありますが、31節に「たまたま」と表現されています。この襲われた人も「たまたま」そこを通っただけであったのかもしれません。そして強盗たちが待ち構えている「たまたま」その日その時刻にそこを通ったことになっています。
「たまたま」、偶然に、というのは何か聖書の言葉として不思議な感じがしますが「たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘が皆の前で踊りを踊って」(マタイ14:6)、「たまたま、バラバという者がいて」(マルコ15:7)、「ルツは出かけて行って、…落穂を拾い集めたが、それは、はからずも…ボアズの畑のうちであった」(ルツ2:3)。人間の視点に立って「たまたま」と表現されているのでしょう。でも神が知らないことはもちろんないと思います。しかし人間の目にはそれは隠されていますし、特に苦しみや不幸についての原因や理由、あるいはその意味を誰しも十分に説明できるわけではありません。
この喩えが示していることは、人間は神の目から見れば、傷つき倒れている状況にあるという厳しい現実です。イエスが「群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」(マタイ9:36)とあります。聖書は、人間が弱く傷つきやすい存在で、創造主である神から離れ、その罪ゆえに苦しんでおり、言いようのない孤独をかかえており、力ある助けを必要としている者であることを明らかにしているのです。
2,通りがかりの「祭司」と「レビ人」のうちに人間の (罪)の現実が示されています
半殺しにされ、置き去りにされた状態にある、哀れな者のそばを通り過ぎて行く人たちがいるというのも、この喩えの内容が現実を見る鋭い見方を示しています。苦しんでいる自分を見て誰かが助けてくれると期待しても、人は見知らぬふりをして通り過ぎて行くのみです。凶悪な強盗たちの存在も人間社会の暗闇なのですが、助けることをせずに、傍観するだけの人々の存在もやはり暗闇なのです。マザー・テレサが言った「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」は真実な言葉でした。
しかし、この喩えの真正面の問いからすると、私たちは傷つき倒れているだけではなく、同時にこの祭司やレビ人のように、冷たい心で生きていないか、という問いかけがあります。「律法の専門家」やユダヤ人たちは「祭司」や「レビ人」にも言い分があることをよく知っていたでしょう。祭司やレビ人は律法で死体に触れることを禁じられていたため、道で倒れている人を見た時「もし死んでいたら」と宗教的規則を守ることを優先したのかもしれません。あるいはもし生きていたとしても、そんな人に関わっている間に自分も強盗に襲われて同様な目に遭わないとも限らないと自己保身を優先したのかもしれないからです。イエスは、もしあなたの中にこの祭司やレビ人と同じような思いがないか、また同様な見過ごしの経験を持っていないか、それがあなたの心の中にある、罪というものですよ、と指摘しておられるのです。
3,「サマリヤ人」のうちに神の (あわれみ)と人間が生きて行く方向が示されています
しかし、この喩えのメインは33節以降に記されている「あるサマリヤ人」との出会いです。この喩えの不思議さは、第三の人として一般のユダヤ人を出すのでもなく、サマリヤ人が登場しているところです。明らかにここには聞いている人を驚かせる意外性がありました。人の意表をつく話です。なぜなら当時のユダヤ人はサマリヤ人を蔑みの眼で見ていたからです。喩えでこのサマリヤ人のしたことが特に細かに語られています。彼は旅の途中にこの強盗に襲われ倒れている人を見つけ、かわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱しました。サマリヤ人は自分用に持っていたオリーブ油とぶどう酒を使い、ほうたいなどの応急手当をし、自分が乗っていた、たぶんロバから降りて、この倒れている人を乗せました。宿屋に着いても彼は介抱し続けました。そして「デナリ二つ」(2日分の労働賃金相当)のお金を宿屋に渡し、超過した分も引き受けるまでの犠牲を払ったのです。伝統的解釈からも言われていますが、この「サマリヤ人」はイエスご自身を象徴しています。イエスはあなたをこのサマリヤ人のように、倒れているあなたを見つけ、かわいそうに思い、近づいて、抱きかかえて、傷に触れて癒してくださり、回復するための犠牲を払ってくださいます。世界中の多くの人たちが今に至るまで、このイエスに出会い、救われ、癒され、恵みを受けて来ました。あなたもどうか心を開いてこの方を受け入れてください。
そしてこの話のもう一つのポイントも忘れてはならないでしょう。それはあなたもこのサマリヤ人と同じようにしなさい、ということです。元々この話は、29節「では、私の隣人とは、だれのことですか。」という律法の専門家の傲慢な思いを改めさせるためのものでした。律法の要約であり中心として、「神を愛せよ」と「隣人を愛せよ」があるが、彼の言い分は「隣人」とはいったいだれであるのか、どう定義すべきなのか、と言った議論で、私には「隣人が誰であるのか」わからないので、愛することができないのですという詭弁でした。「隣人が誰であるのか」が決まったからといってその人を愛せる訳ではありません。むしろイエスは逆であることを示されて「隣人が誰であるのか」を問うのではなく、「あなたが良き隣人になれ!」と命じられたのです。