「真の幸福」

詩篇 1:1-6

礼拝メッセージ 2022.10.2 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.主のおしえに留まり続ける

 詩篇1篇では、正しい者と悪しき者の定義(1−2節)、正しい者の祝福(3節)、悪しき者の神のさばき(4−6節)が述べられています。その内容から1篇は詩篇全体を要約していると言われることが多くあります。また、1篇には表題が付けられていないことから、詩篇全体の結論的な賛美として付け加えられたものではないかと考える人もいます。続く2篇が「幸いなことよ」ということばで締め括られていることからは、1篇と2篇はもともと1つであったことも考えられています。
 詩篇全体を通して主との交わりの豊かさを知ることができますが、詩篇の冒頭にこの1篇が置かれていることから思わされるのは、「主のみそばで祝福を受ける具体的な生き方とは、主のおしえに留まり続けること」であるということです。そして、それこそが真の幸いだということです。
 主のおしえとは、私たちの生活を束縛するものでも、嫌々ながら守るものでもありません。この世界と私たちを造られた主が、私たちの生活を守るために、愛のゆえに定められたものです。

 現在の私たちは「主のおしえ」と言うと、新旧約聖書すべてを意味することが多ように思います。「おしえ」という言葉は、ヘブライ語では「トーラー」という単語で、多くは「律法」と訳されます。当時は「おしえ(トーラー)」と言うと、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書を指すのが慣例でした。ですから、「おしえ」と言うと、直接的に律法が示されている五書を指していると捉えることができます。しかし、ここではもう少し広い意味で「主がお語りになったおしえ」としても読むことができると思います。

 「幸いなこと」の定義として、まず1節において「悪しき者のはかりごとに歩まず」「罪人の道に立たず」「嘲る者の座に着かない人」のことであると言われています。「悪しき者」とは、意志をもって神に背く人のことです。「罪人」とは、的外れな生き方をする人、「嘲る者」とは高ぶって、聖なることや霊的なことをばかにする人のことを表しています。
 「歩まず」「立たず」「座に着かない」という表現によって、このような悪に全く踏み入らない状態の人こそが幸いであることがわかります。

 1節では「〜しない」と言う消極的な表現によって「幸いなこと」の説明がなされました。それに対して、2節では、真の幸いの源が示されています。それが「主のおしえ」です。悪しき者のような生き方から離れている幸いな人とは、単に「行いの正しい人」のことであるとは述べられていません。人の行いの正しさに注目して、それを賞賛してはいないのです。「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人」というように、主を慕い求め、喜んで主のおしえに留まることこそが、私たち人間が悪の道から離れるための最も良い具体的な手段であると言えます。
 そのような人は、水の流れのほとりに植えられた木にたとえられています。豊かな水の流れのそばに移植された人、つまり、主のおしえに留まり続ける人には、いつまでも主が恵みを注いでくださり、「そのなすことはすべて栄える」ということが確約されています。それは、この世界の主であり、恵みの源であるお方からの手入れを受けることができるからです。


2.「主が知っておられる道」と「悪しき者の道」

 4節以降では、悪しき者の道と、その末路について語られています。麦の脱穀場では、籾殻は風でと吹き飛ばされてしまいます。悪しき者の歩みは、一見魅力的で栄えているように感じるかもしれません。しかし、それは表面的な幸いにすぎず、最終的には神のさばきに耐えることができない価値のないものであることが表現されています。
 悪しき者の歩みの具体的な表れとしては、主のおしえに留まる正しい人たちの「集い」、すなわち公的な礼拝や集会に出席し続けられないことが挙げられています。人が主の御前に悔い改め、罪の赦しという主の恵みを信じ、感謝し、主を賛美する礼拝の時は、主のおしえから離れている者にとっては居心地の悪いものです。反対に、集いに参加する「正しい者たち」については、出席し続けることができるということ自体が主の招きと赦しによる恵みであることを覚えたいと思います。

 最後の6節は、本篇の締め括りです。「まことに ただしい者の道は主が知っておられ 悪しき者の道は滅びる」。「知る」とは、知的認識以上の人格的な交わりのことです。旧約聖書では、神様が人を「愛し守られる」ことや、神様が主権をもって「選ぶ」こと、時には「気を配る」ことを意味しています。
 1篇は、「幸い」と「滅び」の2つの道を比較しつつ、「幸いなこと」について積極的に述べています。人にとって何よりもの「幸いなこと」は、すべての幸いの源である主に留まり、日々主に教えられながら歩むことです。このことこそが、私たちの正しい行いへの最善の道であり、主と共に歩むことによる祝福は、失われることが決してありません。