「目標を目ざして一心に走ろう②」

ピリピ人への手紙 3:17ー21

礼拝メッセージ 2015.12.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,走る          (コース)を確認する

 パウロは12〜14節では「追求している」「前のものに向かって進み」「一心に走っている」と記し、競走(レース)で一生懸命に走っているというイメージを語ってきましたが、17節以降では「歩む」という表現を使って、それが信仰生涯というじっくり取り組む必要のある長距離レースであることを表しているのかもしれません。
 一生懸命に歩き、走るとして、もしも間違った方向に走っていて、コースからはずれているならば、どんなに速く走ったとしても失格になってしまい、賞を受けることができません。
 17節以降で説かれていることは、その競走のために、第一にどちらに向いて「走る」のかという方向のこと、第二に、何が正しい方向へ進むことの妨げとなるのかという障害物や危険について、第三に、私たちの歩む先にはいったい何が用意されているのかという究極の希望、ということが説かれています。
 パウロは自分を見ならい、同じ歩みをしている人たちを手本にしなさい、と語っていますが、何かとてつもなく高い要求で、自分には無理であると尻込みしてしまうかもしれませんが、そうではなくて、むしろ普通で良いし、別に高度な聖書知識を得なくても、道徳的に完全無欠になることでもないと思います。むしろ、使徒4:13に「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」とあるように、「イエスとともにいた」ことを示すことであると思います。 到達点を問題にするのではなく、どちらに向いて走っているのかという方向です。パウロにともにならうということは、聖書記者でもあるパウロの書いた言葉に目を留めて歩むこと、この方向をいつも確認することです。E.H.ピーターソンのメッセージバイブルは3:17をこう訳しています。「友よ。私から離れてはいけません。あなたが見ている、この同じゴールに向かって進み、同じコースを走っている人たちのことを追いかけなさい。」(E.H.Peterson “The Message” Navpressより私訳)そうです。私たちは孤独なランナーではありません。前を走っている人、横に走っている人、あとに続いて走っている人たちがいるのです。


2,走る際に          (障害)となるものを確認する 

 「十字架の敵として歩んでいる人」というのは誰のことを指しているのでしょうか。ある人の理解では、彼らは律法を否定し、人間の欲望を肯定する快楽主義者や無律法主義者を指すといい、これとは反対に、ここの人々は、パウロが「肉体だけの割礼者」と言う異邦人信徒にも律法を強要する人たちを指していると考えている人もいます。いずれにしましても「十字架の敵」とは、キリストの十字架を必要としないと考えるすべての人たちのことを表しています。その考え方が道徳的であろうとなかろうと、十字架なしでやっていけると考える生き方は、たとえ聖書の教えに真っ向からぶつかって攻撃しなかったとしても、それは「十字架の敵」になり得るのです。
 多くの人たちが十字架の敵であるそのような思いの中にいることは、当然、正しくイエスの方向へ進もうとする私たちに対する惑わしや誘惑となります。メッセージバイブルにはこうあります。「そこからはずれ、他のゴールを選んで、別の道を取り、あなたがたをその道に行かせようとしている人々が大勢いるのです。私は何度も彼らのことについて、悲しみをもって、あなたがたに警告してきました。それを再び繰り返します。彼らすべての欲しいものは安楽な道です。彼らはキリストの十字架を嫌います。しかし安楽な道は死で終わる道です。」(E.H.Peterson “The Message” Navpressより私訳)


3,ゴールすることを            (イメージ)する

 最後に、私たちの歩む先に、何が待っているのかをパウロは明らかにします。確かに聖書はその詳細を記してはいません。しかし、それが確かに与えられるものであることはわかっています。以前の1:27で「キリストの福音にふさわしく(市民)生活しなさい」につながるのが、この「私たちの国籍は天にあります」です。「国籍」は「市民であること」「市民権を持っていること」を表します。また「本国」(新共同訳)、「故郷」(詳訳)などと訳されますが、ユニークなのは、欽定訳です。「国籍」をconversation(会話)と訳していました。私たちの市民権は天にあります。そこに帰るべき私たちの故郷があり、そこには会話、すなわち喜びの団欒があるのです。そしてそこからキリストは再び来られることになります。私たちを迎えに来てくださいます。そのとき、私たちの欠けのある卑しいからだは、栄光のからだへと変えられ、キリストの姿に造り変えられるのです。
 この真理がわかり歩んでいる私たちにとって必要なことは、待ち望むことです。
 クリスマスのストーリーを見る時節となりました。救い主、神の御子が来るという旧約聖書の預言者たちを通して語られていた約束を、人々は待ち望んでいました。私たちが目にする福音書にあるクリスマスの出来事を見てみると、真剣に待ち望んでいた人は少なく、多くの人たちはもう期待することをやめて、あきらめていたように見えます。けれども、救い主イエスは来られたのです。
 私たちは確かにゴールします。そこには神の栄冠が用意されています。オリンピックの選手がするイメージトレーニングのうち、表彰台に上るイメージを持つと聞いたことがあります。天に国籍を持つ者として、キリストの来臨、キリストの御力による栄光への変化を、イメージしつつ待ち望もうではありませんか。