「目標を目ざして一心に走ろう①」

ピリピ人への手紙 3:12ー21

礼拝メッセージ 2015.11.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,地上では完成に到達          (できない)ことを知ろう(12−13節)

 繰り返しになりますが、パウロがピリピ人への手紙で述べて来ていることは、たんに福音を信じるというだけでなく、福音にふさわしくどう生きるのかということでした。福音にふさわしく生きるためには、福音とはどういうものなのかを考えなくてはなりません。それでパウロは、本日の聖書箇所でも、「考えてはいません」(13節)、「このような考え方をしましょう」(15節)と言って、「考える」という言葉を使っています。フランシス・シェーファー(キリスト教思想家)は、何を考え、前提としているかで、その人の生き方が決まってくるというようなことを言いました。パウロは自分の生き方に対する考え方をここで明らかにすることで、それとは違った生き方についての考え方(15節)を持っている人に対して、アドバイスや警告を発しているのです。
 「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです」(12節)と記されています。この言葉の背景には、当時の割礼を強要するユダヤ的律法主義者の存在がありました。彼らは、彼らの言う律法遵守をすれば誰でも完全な者になれると言っていたのでしょう。時代は変わっても、このような誘惑はいつもあります。とかく停滞しているかに感じてしまう自分の生き方や信仰について、画期的な何かを経験をすれば変われると思ってみたり、未知の新しい真理を見つけなくてはと、あせってしまい、かえって大切なものを見失ってしまうことがあります。
 けれども明らかなことは、新約聖書の多くの書簡を書いたパウロさえも「私は完全ではないし、完成してもいない」とはっきりと告白しているのです。では、これはキリストに従う信仰の道が不完全なものであることを示しているのでしょうか。いえ、そうではありません。むしろ、人間の不十分さにもかかわらず、神の恵みは完全で、堅固なものなのです。それでパウロは、ちょっと言葉遊びと思えるような表現で次のように書きました。「ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」(12節)。自分自身が一生懸命になって捕らえようと頑張っているが、実のところ、キリストがまず先に、私を捕らえてくださっていると気づいたのです。これが神の恵みというものです。「神の恵みによって、私は今の私になりました」(Ⅰコリント15:10)とあるように、神の恵みは、私たち人間の努力や行いに先立って働いているのです。


2,目標を            (目ざして)一心に走り続けよう(14−15節)

 二番目に語られていることの背景は、どうせ地上生涯でどんなに頑張っても完成には至れないのだからと、あきらめて悲観的になったり、開き直って快楽を求めたりしていく人たちのことを想定しているように見えます。教会に来ているキリスト者でも同じ生き方になってしまうことがあり得ます。信仰の向上心を失い、成長することに無関心になってしまうのです。しかし、パウロを見ると、死を目前に感じている状態にあっても、「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(13−14節)と言っています。パウロはよく、信仰の歩みや、人生を、競技者(アスリート)の姿にたとえましたが、ここでもそのようなイメージで表現しています。
 前回の箇所ですが、10−11節を見ると「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」とありました。この言葉は順序がユニークであると思います。まず「復活の力」の経験が来て、その次に「キリストの苦しみ」にあずかるとあり、そして再び「復活」に達するとなっています。「ここに述べられている順序には意義がある。キリスト者はまず、復活したキリストに結ばれることによって、新しい命と力を体験し、日常生活が信仰に根ざしたものに変わる。その結果、キリストがそうであったように、世の人々から反対されてキリストの苦しみにあずかるようになる。その苦しみは、洗礼の時からキリストの死にあずかり始めたキリスト者を、ますます深くキリストの死に同化させていく」(「聖書 原文校訂による口語訳」フランシスコ会聖書研究所訳注 p.541)。


3,信仰の仲間と            (いっしょに)走り続けよう(16節)

 二番目のところで、競走のイメージで描かれていると書きましたが、ただ普通の競走とは異なっている点があります。それは勝利を獲得できるのは一人だけではないということです。理屈上、全員が優勝できるレースです。だから「上に召してくださる神の栄冠」は互いに奪い合う必要はなく、全員の受け取る分が用意されているのです。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」で、鳥のドードーが催した「コーカス・レース」と同じように、走ったみんなが勝って、賞を受けられるのです。実は、16節で「…進むべきです」と訳されている言葉は、バウアーのギリシア語辞典によると「兵隊が整列する」「隊列を組む」という意味だと書かれています。ですから、おそらくこの16節の意味することは、一人で恵みを受けて孤高の存在を目ざすのではなく、教会みんなで隊列を組んで、ともに走り、進んで行くようにと言われていることになります。さあ、いっしょに走り続けましょう。