「目を覚ましていなさい」

マルコの福音書 13:32-37

礼拝メッセージ 2021.11.21 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.その日、その時はいつか必ず訪れる

 オリーブ山での説教がいよいよ終盤を迎えています。イエス様はこれまで、終末の前兆と、その終末の時に関することを話してこられました。本日の聖書箇所はこれらの締め括りになります。要するに、イエス様は「だから、目を覚ましていなさい(33節・37節)」ということをすべての人に警告しておられます。ですから、私たちはまず、終末の時は必ず訪れるという認識を持たなくてはなりません。
 それでは、この世界が必ず終末の時を迎えるならば、その時期はいつなのでしょうか。明確に教えていただけるのであれば、私たちもその日に向けて目を覚ましていることができます。それに、イエス様もこれほどまでに人々のことを思ってくださっているのであれば、教えてくれてもいいように思います。しかし、イエス様はあれだけ終末についてお語りになりながらも、その日がいつ訪れるのかについては教えてくれません。それどころか、その時期についてはイエス様ご自身も知らないと言っておられます(32節)。私たちは、父・御子・御霊の三位一体の神を信じ、その神は全知のお方であると理解しています。ですから、イエス様が「知らない」とは、どういうことでしょうか。
 これは、イエス様がご自分を卑しくされ、人としてこの地に遣わさたということであると説明して、合理性を保とうとすることができるかもしれません。しかし、ユダヤ人が「知る」・「知らない」と言うときには、それは単に知識の問題であるというよりは、関心、興味、愛情のことを表しているということに注目したいと思います。イエス様は、偽預言者たちに「わたしはあなたがたを全然知らない(マタイ7章23節)」と言われたことがありました。イエス様が、彼らのことを全く知らなかったわけではありません。関心がない、あるいは関係がない、ということです。
 つまり、その日、その時がいつなのかということについて、おそらくイエス様は、「知っていても教えないし、それはわたしではなく、天の父がすべて管理しておられる。あなたがたにとっては、なおさら知らなくてもよいことだ」というニュアンスを込めて言われたのではないでしょうか。
 私たちにとって重要なのは、イエス様が教えてくださった終末の時がいつの日か必ず訪れることを心に留めておくことです。そして、その終末の時をの訪れを覚えて、いつも目を覚ましていることです。


2.目を覚ましていなさい

 オリーブ山での説教でイエス様が弟子たちに最も伝えたかったことは、「目を覚ましていなさい」ということでしょう。目を覚ましていることの重要性や、神様と私たちの関係について、イエス様は主人を待つしもべのたとえを用いて、分かりやすく説明しておられます(34-36節)。マタイの福音書の平行箇所(24章45-51節)では、「忠実な思慮深いしもべ」と「悪いしもべ」の2通りが語られていますが、マルコの福音書ではただ「目を覚ましていること」の重要性が強調されています。
 主人の帰りの時間帯について、夕方、夜中、鶏の鳴くころ、明け方の4つに区分されていることについては、当時の夜番が夜間は4交代制となっていたことが関係していると考えられます。昼間については、起きていることを前提にして語られているのでしょう。
 主人が突然、夜中に帰ってきたからといって、夜番を任されているしもべが眠っていてはいけません。同様に、私たちも主が再び来られる日まで、いつも目を覚ましていることが大切です。


3.その時まで、割り当てられた仕事の責任を

 それでは、いつも目を覚ましているには、どうすればいいでしょうか。常に緊張感を忘れず、今日がこの世の終わりの日かもしれないという意識を持って、過ごし続けるということでしょうか。
 イエス様は、「その日、その時」のタイミングそのものを意識し続けることではなく、主から与えられているこの地上での使命を全うするようにと呼びかけておられるように思います。しもべは、主人が帰って来ていなくても、与えられている役割に応じてその責務を果たさなくてはなりません。夜番を任されているなら、その間は居眠りせずに、見張りを続ける必要があります。イエス様が教えておられるのは、24時間眠ることなく起き続けているようにということではなく、毎日をこの世の終わりのように過ごしなさいということでもありません。イエス様の終末に関する言葉が誤解されてしまうと、心に平安を失ったり、日々の務めを放棄してしまったりすることになりかねません。また、終末の前兆に関する預言と現状を照らし合わせて、終末の時期を厳密に予言しようとする動きも起こるかもしれません。後の時代のペテロも、実際にこのような人々の傾向に苦労したようです。
 しかし、イエス様が弟子たちに伝えたかったのは、そのようなことではなく、その日、その時が来るまで、主から与えられている使命に忠実であり続けることの大切さについてではないでしょうか。先にも確認しましたが、必ず訪れる終末の時について、その時期を私たちが明確に知る必要はありません。イエス様は弟子たちをはじめ、すべての人に、主に再びお会いする時までの私たちの生き方を示してくださっています。私たちがイエス様にお会いする時には、「よくやった」と褒めていただきたいものです。私たちは主にお会いするその日まで、主のみこころを祈り求めながら、それぞれに与えられている役割に責任をもって、主にお仕えしていきましょう。