「皇帝への税金」

マルコの福音書 12:13ー17

礼拝メッセージ 2021.9.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,真実、真理、神の道に歩む

 この箇所を読む際には、当時ユダヤは地中海世界全体を支配する大帝国ローマによって植民地とされていたことを覚えておく必要があります。実質的に支配権を握っているローマ帝国に対して従うほかない状況でしたが、それをほとんどのユダヤの民は快く思っていませんでした。神によって選ばれ、真の神を信じる民としてのアイデンティティーを持っている彼らが、異邦人であるローマに支配されていることは屈辱でした。ローマ側に立つか、反ローマか、またはそれ以外の道か、というように政治的立場については非常に難しいところに人々は置かれていたと思います。そして、それを生活の中で否応なく覚えさせる事柄の一つが「税金」であったと思います。ここで言われる税金とは「人頭税」と呼ばれるものです。税金の徴収こそは国家権力を具体的に感じさせるものです。パリサイ人とヘロデ党の者たちは互いに政治思想的立場に関しては異なっていましたが、共通の敵、双方にとっての邪魔者を排除するために、ここで一致協力してイエスに攻撃をしかけました(参照3:6)。彼らの質問は「カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか。いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」(14節)というものでした。
 彼らがこの質問を投げかける前に、イエスに対するいささか長い美辞麗句が付け加えられていました。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」(14節前半)。これらのことばについて、心にもない表面的なお世辞であると説明する人もあれば、ここには真実が含まれていると言う人もあります。私はこれらのことばは質問の単なる前置きだけとは言い切れない内容であると見ています。パリサイ人であれ、ヘロデ党であれ、この時代の人々は皆、「だれにも遠慮しない」(欄外の別訳では「人に取り入ろうとしない」)、あるいは「人の顔色を見ない」(直訳では「人の顔を見ない」という意味)、とイエスに対して言いましたが、彼らだって、だれが何を言おうと自分の信じているところに立ちたい、真理があるならばそれを堅持して生きていきたいと願っていたのではないかと思います。ところが、実際、彼らは人の顔を見て損得を考えなくては生きていけないという情けない現実を感じて歩んでいたことでしょう。
 しかし、彼らの前に立っているイエスは、確かに「真実な方で、…真理に基づいて神の道を教えておられ」ました。彼らがイエスに対して本当はそうは思っておらず、皮肉を語ったとも受け取れますが、彼らの言った内容は正しい評価であったと言えるでしょう。彼らが語った「真実」、「真理」、「神の道」ということばが指し示しているものは共通しています。それは神の御目に正しいことを行う生き方にほかなりません。ペテロたちが「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29)と言い放った姿勢で生きることです。いつの時代にあっても、私たちは神の御前に生きていることを自覚して、「真実」、「真理」、「神の道」に歩めるよう、聖霊に助けを求めながら、努めていきましょう。


2,カエサルのものはカエサルに

 さて、彼らの質問に戻ってみると、「カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか。いないでしょうか」という問いでした。先程見ましたように、ローマの圧政に苦しむ民にとって、メシアである存在は希望の光でしたから、もし「納めるべき」とイエスが言われるとローマに屈したと思われ、民衆の心が離れていくことになるでしょう。反対に「納めるべきではない」と言えば、ローマに対する明確な反逆を述べたことになり、その場で逮捕されてしまうことになるでしょう。どちらの答えでも断罪されるという、これは彼らが仕掛けた巧妙なことばの罠でした。13節に示されているとおりです。
 しかし、イエスは敵が驚嘆して退散するほかない絶妙のお答えをなさいました。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(17節)と。まず、「カエサルのものはカエサルに」という部分です。これはパウロがローマ人への手紙13章で述べているところを想起させます。「すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい」(ローマ13:7)。そしてその理由は次のように記されています。「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられている」(同13:1)ということです。ただこのあと見るように、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください」という局面があることを常に忘れてはならないのです。


3,神のものは神に

 次に、「神のものは神に」ということです。このことが最も重要な主のメッセージです。「カエサルのものはカエサルに」ということは、次のことばである「神のものは神に」という命題の前にひれ伏さなくてはならないのです。イエスは、彼らに対してデナリ銀貨を見せるように言われ、その硬貨の表面を見せて、「これはだれの肖像ですか」、「これはだれの銘ですか」と問われました。デナリ銀貨とはティベリウス帝のデナリ銀貨と思われますが、それにはティベリウスが月桂冠をかぶった横顔が刻印され、裏面には母后リヴィアの姿が刻まれていました。そこに刻印されていた文字は「崇拝すべき神の崇拝すべき子、皇帝ティベリウス」とありました。この「肖像」ということばはギリシャ語ではエイコーンであり、パソコンでいう「アイコン」の語源です。すなわち、「かたち」、「イメージ」という意味です。したがって、この銀貨はだれの姿が刻まれているのか、ローマ皇帝のかたちに刻まれているのなら、これはローマ皇帝、すなわちカエサルのものであるとイエスは仰せられたのです。だから、当然のこととして皇帝に税として決められたとおりを返せ、ということになります。
 その続きのことばとして「神のものは神に」と語られたことを考えると、銀貨ではなく、あなたがたは一人ひとりそのものが、実に神のエイコーン、つまり神のかたちとして神のものであることを刻印されていると、イエスは暗示されたと思います。そうであるならば、あなた自身は、ローマ皇帝のものでもなく、他のだれのものでもなく、しかもあなた自身のものでさえもなく、神のものである、神に所有されている存在者であると、ここにイエスは教えられたのです。すべての人間は、神のかたちに造られていることを聖書は明らかにしています。創世記に次のように書かれています。「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」(創世記1:26〜27)。人間はどの時代のどこの国の者であろうと神のものであることを忘れてはいけません。だからあなたはあなた自身を神にささげなければならないのです。これこそが「神のものは神に」ということなのです。