「異邦人への使徒」

ガラテヤ人への手紙 2:1-10

礼拝メッセージ 2022.7.17 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


エルサレム会議

 1章でのパウロのエルサレム訪問の記事を受けて,14年後の2回目のエルサレム訪問について述べます。この訪問は前回の個人的な訪問ではなく,会議に出席するためでした(参照:使徒15章)。問題は,ユダヤ教の背景のない,聖書が異邦人と呼ぶ人々がユダヤ教を経由せずにクリスチャンなる、そのようなことが起きてきたことでした。教会は当初,キリストによって救われるのはユダヤ人であり,ユダヤ教の背景のない異邦人に福音が及ぶとは考えていなかったようです。そのような想定されていないことが起きて,この異邦人キリスト者たちがユダヤ教の律法や習慣を守るべきかどうか,それを話し合うために論争(異邦人キリスト者もユダヤ教に慣例に従うべきと主張する人々,そのような考え方に賛成しないパウロをはじめとする人々)に関わった人々が集まりました。
 パウロの助手である,異邦人キリスト者テトスは,ユダヤ教への入信の儀式である割礼を強制されませんでした。つまり,テトスはユダヤ教律法・習慣を強制されなかったのであり,異邦人にユダヤ教の習慣を強制しないというパウロの主張が基本的に通ったことが示唆されています。加えて、エルサレム教会はパウロの主張を受け入れたばかりか,パウロを異邦人宣教に関わる者として認めます。


パウロの務め

 エルサレム会議では,異邦人キリスト者に対してはユダヤ教に律法や習慣を強制しない事が確認されました。異邦人キリスト者がユダヤ教を通さずにキリストを信じることが起きたその現実を認め,そこにエルサレム教会の指導者たちも神の業を発見したからです。もしこのような取り決めがされずに,異邦人に対してもユダヤ教律法や習慣を強制していれば,今の教会の姿はなかったでしょう。ユダヤ教の一派として留まり,旧約の律法に生きていくグループが現れたはずです。もう一つは,私たちが持っている旧約聖書を捨ててしまうキリストの弟子集団が出現したでしょう。私たち異邦人がただキリストへの信仰(キリストを通した神への信頼)の生き方を選ぶことができたのは,この会議における福音理解が生き残ったからです。
 そのような重要な会議において手紙の著者であるパウロは,自らの任務について確認をします。ひとつは,聖書に記されているように,エルサレム教会から異邦人への宣教者であることが認められました。エルサレム教会はユダヤ人へのキリスト宣教を行い,パウロとそのチームは異邦人への宣教を行うのです。それぞれの信仰の背景や宣教に関する考え方その他の背景のゆえに役割を分担することになりました。またパウロは別の任務を負うことにもなります。それは,自らが理解した信仰の在り方(神を信頼することのみを基盤とする生き方)を擁護し,キリスト信仰を守ろうとすることです。エルサレム教会との福音理解の違いや,そこから生まれてくる誤解を乗り越えて,ユダヤ律法からの解放をキリスト信仰に結び付けていこうとしたのです。それを守るために,このガラテヤ人への手紙も記されました。パウロはこの点において一切の妥協はしません。福音を伝える方法や,人々とのかかわりにおいて柔軟であるパウロは,自らの福音理解を守ることを自らの任務として強い態度を取ったのです。


キリスト者の務め

 私たちの信仰にある日々の歩みとして,何を妥協すべきなのか,あるいは何を妥協してはならないのか,そのような課題が常に表れます。また,妥協できると感じる問題と,妥協できないと感じる課題が人によって違います。その人の価値観・福音理解によって変わるからです。変えてはならない事柄,変えてよい事柄,変えなくてはならない事柄,この3つの事柄を整理しておくべきでしょう。自らの考えが人の命を救うものであるか,神の恵みを実現するのか、他者の事情をよく考慮しているか,このような事を考えておかねばなりません。パウロの任務は福音を伝え守ることでしたが,その目的は人を救うことであり,神の意志を実現すること、人間同士が尊敬し合い助け合うキリストにある生き方です。この目的は,私たちの務めでもあります。