「生きている者の神」

マタイ福音書 22:23-33

礼拝メッセージ 2017.4.16 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


 復活祭は、イエスが死者の中からよみがえったことを記念する日です。ではイエスご自身は復活をどのように見ていたのでしょうか?


サドカイ派の人々の疑問

 サドカイ派の人々は復活を否定していたと書かれています。サドカイ派の人々は,キリスト教会が旧約聖書と呼ぶ聖書のうちの最初の五つの書物(モーセ五書,律法と呼ばれる)しか聖書と認めていなかったからです。律法には死者からの復活についての教え(終末時における死者の復活)は記されていないので,彼らは復活の教えを否定していました。ここでサドカイ派の人々は、旧約聖書だけでなく広く古代においては採用された結婚制度(あるいは部族・氏族を守る制度でレビラート婚と呼ばれています)に引っ掛けて復活の教えの矛盾を突こうとしました。


イエスの反論

 イエスの返答は,サドカイ派の復活の教えへの批判をかわすものでした。復活においては,この地上での婚姻関係は継続していないと言われています。ただ,イエスが婚姻関係のことに言及したのは,質問の内容が結婚にかかわることであったと言うだけのことです。本当に言いたかったことは別のことでしょう。つまり,復活の教えで私たちが注目すべき事柄は,復活を通して私たちの生活や状態がどのようになるのか(復活の時の年齢とか),そのようなことではないということです。


「アブラハム、イサク、ヤコブの神」

 死人の復活について,旧約聖書の記事が引用されます。出エジプト記の中で(神がモーセと出会うシーンで)、神は自らを「アブラハム,イサク,ヤコブの神」として自己紹介していて、イエスはそれを引用しているのです。神は彼らと契約を結び、その子孫(つまりイスラエル)を祝福することを約束しています。本日の聖書箇所としては注目すべきは,この言葉が神からモーセに語られたときには、この3人の人物はすでに死んでいることです。彼らの復活の記事もありません。しかし,イエスは,すでに死んだ者を指して、神は生きた者の神であると言うのです。


生きた者の神

 復活の意味はすでに生きている者において,また生きている者の間に始まっていることをイエスは言おうとしている,そんな解釈ができます。死んでから始まる命ではないのです。アブラハム、イサク、ヤコブが復活したとは記されていません。イエスがこの3人を復活の意味の例証としたのは,彼らが神を信じて生きていたときに,すでに復活が指し示すありかたを生きていたと言うことでしょう。それを新約聖書では、いのち、救い,神への信頼(信仰),神の国の出来事などと呼ぶのです。
 私たちが神を信じて生きていこうとする決断を持つときに,私たち自身はまだ生きている者なので,復活そのものではなく、それが指し示す希望に生きます。神は生きている私たちにとって神なのです。しかし私たちは,滅び行く肉体を持ち,死を迎えなくてはなりません。誰もそれを避けることはできません。私たちがこの時代に復活の意味を生きるならば,現在生きていることは未来へのいのちの約束としての意味を持つことにもなります。アブラハム,イサク,ヤコブは神に従って生きましたが,約束されたもの(土地と子孫の増加)の全てを手に入れることはありませんでした(へブル人への手紙)。彼らに約束が与えられ,彼らの死後その約束は果たされたと聖書は記します。いのちの授与は神の約束として果たされると,私たちは理解できます。だからこそ,私たちは将来に希望を持って生きることができるのです。繰り返しますが、復活の命は死後に始まるのではなく、すでに私たちが神と共に歩む中で始まっています。
 この希望は私たちの想像を超えたものでしょう。私たちはその希望を絵として描こうとしたり,物語を書いてみたり,復活のプログラムを想像します。しかし私たちがそれを想像しても,私たちの能力で想像したものなど,神の恵みに比べられないでしょう。サドカイ派の人々の勘違いは,この絵に描いた未来を想像させることでした。この未来に希望を置くように絵を描くにしても,そうでないにしても,私たちが未来の復活を絵に描くことが出来ると考えるならば,それは勘違いでしかないのです。復活の希望は人間の狭い考えを超えているのと同時に、神から与えられた確信でもあります。神が最善をなし,神が命を与えます,そのような神に対する希望を持ちたいのです。それが今生きている者の神が与える復活の希望であり、すでに始まった永遠の命です。