「王であるメシアの支配」

詩篇 2:1ー12

礼拝メッセージ 2022.10.9 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,詩篇を読もう

詩篇を学ぶ恵み

 カルヴァンは詩篇のことを「魂のすべての感情の解剖図」であると語り、ルターは「詩篇はすべての聖徒の小さな書物」と呼んで、人がどのような事情の下にあっても、その事情と一致して自分にとってまさにそのとおりであると思わせるようなことばを詩篇の中に見いだせると言っています。ボンヘッファーは詩篇を「聖書の祈祷書」と言って、詩篇は私たちに祈りを教えるもので、キリストとともに詩篇を祈ることが必要であると書いています。
 C.H.スポルジョンの詩篇の講解書序文の最後にこうありました。「暗闇の日々の中で光を探していますか。あなたはここでそれを見出すでしょう。弱さを感じる時々に力を探していますか。疑いの場所で信仰を、臆病の代わりに勇気を、失望の代わりに希望を探していますか。それなら、1〜2時間座って、あなたが好む詩篇を取り出し、渇いた魂に常に届く永遠の真理であるこの泉から、度を越すほど飲みなさい。」(C.H.Spurgeon 『Psalms』 Kregel Publications)。この勧めにあるように現代という暗く困難な時代に生きる私たちにとっても、詩篇を学ぶことはとても大事なことであると思います。

全体の序文としての詩篇2篇

 さて、本日読む詩篇2篇は、古代イスラエルの王が即位する儀式で用いられた歌であると言われています。また、この詩篇は1篇と同じく、150篇ある詩篇全体の序文的内容であると考えられています。その理由は、詩篇1篇1節最初の「幸いなことよ」が、詩篇2篇の終わりの12節に繰り返されていることです。そして使徒の働き13章33節の詩篇2篇7節の引用で「詩篇の第二篇に」と本文にありますが、一部の古い写本ではこれが「詩篇の第一篇に」となっていて、この1篇と2篇が元々は一つのように読まれていたとが推測されることなどが挙げられます。また、この詩篇がメシア預言的な詩篇であることもその理由の一つに数えられています。
 そのようにこの2つの詩篇を同時に並べて見ていくと、詩篇の世界観や視点というものを予め示しているように思えます。1篇では、正しい者の道と悪しき者のたどる道という二つの「道」が対比として記されていました。「道」の表現は詩篇2篇12節にも同様に出て来ます。そしてこの二つの「道」はそれぞれの結末を迎えます。1篇では「道」とその先にある結果という、平面的あるいは水平的なイメージであり、未来を知って、今、どちらの「道」に進むのかという問いかけのように読めるものでした。一方で、2篇は「天」と「地」という垂直方向のイメージで描かれています。騒ぎ立つ「地の王たち」(2節)と、「天の御座に着いておられる方」(4節)によって立てられた「わたしの王」との上下の対比は明確です。1篇では「主の教えを喜びとしている人」と「悪しき者」という個人による信仰の歩みと捉えられるような読み方もできる表現でしたが、2篇になると、それが「国々」や「地の王たち」が集結し、神とメシアに対する反逆を企てているという歴史的、全世界的な規模となり、それに対して主がさばきを下していかれるという終末預言の情景を示す内容になっています。一個人を超えて、大きな広がりを示すこの詩篇は神の民である共同体(教会)の生き方を問うているのです。


2,神の絶対的な支配を信頼しよう(1〜6節)

神と油注がれた者に対する反逆

 2節に「油注がれた者」ということばが出て来ますが、これがヘブライ語で言うところの「メシア」です。ギリシア語では「キリスト」となります。新約聖書を読むと、初代教会の人たちは、メシアとしてのイエスの受難、十字架の出来事の預言としてこの詩篇の記述を受け止めていたことが語られています。また、7節のことば「あなたはわたしの子、わたしが今日、あなたを生んだ」という表現も、イエスの洗礼や使徒の働き13章33節に出て来ます。9節のことばは黙示録に引用されています(黙示録2:26〜27、12:5など)。こうしたことから、旧約聖書のメシア預言として代表的なことばの数々が実にこの詩篇2篇が元になっていることがわかります。前半の1〜6節までで明らかにされていることは、しかし、主なる神と油注がれた方であるキリストの支配や権威に対して、「地の王たち」、「君主たち」は真っ向から反対し、ともに集まって反逆を試みようとするのです。それは確かに「空しい企み」(1節)に過ぎないのです。

神が笑う時

 しかし、続く4節で明らかなように、人間が天に対して罪深い反逆を起こしたとしても、神は比類なき主権者としてそれらを一蹴されます。神は、ご自身の永遠のご目的を妨害しようとする人間の貧弱な試みを笑い飛ばしてしまいます。4節に「天の御座についておられる方は笑い…」とありますが、ここは聖書の中で神が笑うと書かれた唯一の箇所であり、しかもそれは明るい笑いではなく、嘲りの怖い笑いなのです。それゆえに、続く5節ではこの笑いは激しい怒り、憤りにつながっていることが明らかになっています。いつの時代にあっても、世にある多くの支配者たちは神の主権を認めず、御心に従っていません。現代の混沌とした世界に生きる私たちにとっても、この詩篇のことばは、大きな慰めとなり、力となります。今、目に見えなくても神の主権は確かにあり、国々が騒ぎ立っているようでも、悪いはかりごとがたとえ進んでいようとも、天に座す神は全く揺るぐことなく、笑っておられることを知りましょう。天を見上げ、主の力強き圧倒的なご支配を、心から信頼し続けることが大切なのです。


3,主に仕え、御子に従おう(7〜12節)

 ジェームズ・ボイスの注解書には、この詩篇には四つの声があると書いていました。それは、地の王たちの声、父なる神の声、子なるキリストの声、そして聖霊の声だというのです。最初の三つはわかりますが、最後の聖霊の声はどこにあるのでしょうか。ボイスはこの詩篇のナレーション部分が聖霊の声であると説明していました。なぜなら、聖霊は、私たちを神に従順ならしめ、イエスが王であり、キリストであると告白するように導く方であるからです。特に、10節から12節までのことばが聖霊の声であるとするなら、これは人間の愚かな反逆にもかかわらず、なんと愛情深く、優しき声であることでしょうか。反抗的な人間たちに対しての呼びかけ、その命令のことばは、次の四つです。「悟れ」、「慎め」、「主に仕えよ」、「子に口づけせよ」です。「口づけせよ」(11節)とは「子」である油注がれた王であるお方に臣従の礼として御前にひざまずいて「口づけせよ」ということです。そしてそれは「正しい恐れをもって、心からの従順と喜びによって、御子を礼拝せよ、賛美せよ。」との呼びかけでもあるのです。