テモテへの手紙第一 6:1ー10
礼拝メッセージ 2025.3.23 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1,キリスト者が社会でどうふるまうべきか(1-2節)
この節では、奴隷に向けて教えられています。この手紙が書かれた当時は、奴隷制度という経済組織が深く根を張っている社会でした。ただ、人は神の前に奴隷と自由人との区別はありません(ガラテヤ3:27-28、コロサイ3:9-11等)。また教会の交わりにおいては互いに兄弟姉妹です。これは主の御前に確かなことです。
ここに、一つの問題が生じていたこと考えられます。キリスト者になった奴隷が、主人に対して自由と平等を主張する傾向が出てきていたようです。この問題は初代教会に共通の問題だったようで、新約聖書の所々に見られます(Ⅰコリント7:21-24、エペソ6:5-9、コロサイ3:22-25 他)。それでパウロは、奴隷も自由人も差別なく、キリストにあって一つなのだという真理を語りながら、同時に社会生活においては奴隷として真心をもって主人に仕えるように教えました。
今回の箇所では、主人への伝道あるいは証となるようにも、主人をあらゆる面で尊敬するよう教えています。個人的に尊敬したい気持ちがあるかどうかではありません。未信者の主人から、神と福音とが悪く言われないためです。また一方で、主人が信者である場合も、キリストにあって自由とされているからといって、奴隷がその主人を軽く見ることのないようにと釘を刺しています。
これらの教えは、キリスト者であることによって「損」をしているように思われるかもしれません。しかし、パウロが「その良い行いから益を受けるのは信者であり、愛されている人なのですから」と言うように、すでにキリスト者となった人は、神に愛されていることが何よりもの幸いであることを知っています。
ただし、私たちはここから、普遍的な教えを見出さないように注意したいと思います。パウロは、奴隷制度そのものの賛否について深く議論しようとはしていません。当時は、キリスト教会がスタートしたばかりでした。聖書(今で言う旧約聖書)を信じてきたイスラエルの人々の信仰から派生した、異端とも受け取られかねないグループです。つまり、この頃の最優先事項は、イエス・キリストのために不要な誤解や疑いを避け、生活態度を通してキリストを証することでした。ですから、ここはあくまで「神の御名と教えが悪く言われないようにするため」のキリスト者としてのふるまいについて教えている箇所として、私たちは学び取りたいと思います。私たちも、いくつかの社会に属しているでしょう。家族の一員として、学生として、会社員や従業員として、キリストの素晴らしさを証する者でありたいと願います。
2, 偽教師の扱い – 満ち足りる心を伴う敬虔を(3-10節)
次に、違ったことを教える偽教師たちの扱いについて教えています。彼らは、教えの内容が違っているだけではなく、宗教を利得の手段として考えていました。それで、金銭に関する注意にも繋がっていきます。
偽教師たちの特徴は、「違った教え」だけではありません。私たちも、聖書の理解において完全ではありません。彼らの深刻な問題点は「主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意しない」という態度でした。偽教師は、聖書のことばの背後におられる方の権威そのものを否定しているのです。
彼らは「高慢になっており」、さらに「何一つ理解しておらず」「議論やことばの争いをする病気にかかっている」と指摘されています。人の目には、偽教師のような利得を求める「口先だけの信仰」の方が生きやすいように感じることがあるかもしれません。しかし、「自分のため」と思って選択し続けた決断が、実は滅びへの道を歩んでいるということがあるでしょう。「腐って」「失い」は、ともに受動態で、「腐らされ」「失わされ」でもあります。ですから、背後にある「惑わす霊」の働きも暗に示しているのかもしれません。私たちは気づかないうちに、惑わす霊にすっかり惑わされてしまわないよう、真理のみことばを握り続けましょう。
私たち人間は、自分の幸せを願っているはずなのに、それとは真逆の道を進んでいることがあります。9−10節では「金銭を愛することの危険性」について厳しく注意されていますが、だれもそれが滅びの道だと思って、金銭を愛しているわけではありません。
ほんとうに満ち足りた人生を送りたいなら、むしろキリスト者として歩むことです。7節では「私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません」と諭してくれています。また、パウロはピリピ人への手紙の中で、「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました(ピリピ4:11)」と告白しています。
前半の奴隷への教えから、私たちはキリストにあって自由だからこそ、自分が置かれている社会で人をあらゆる面で尊敬し、キリストを証していくこと。後半の偽教師と金銭に関する教えから、形だけのキリスト者ではなく、満ち足りる心を伴う敬虔によって、目先の利得よりも、私たちの恵み深い創造主に心を留めること。私たちは、これらのことを教えられながら、キリストを思い、今週も歩んでまいりましょう。