「湖の岸辺の群衆」

マルコの福音書 3:7ー12

礼拝メッセージ 2020.9.13 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,群衆が押し寄せた出来事は、神の国の到来のしるし

非常に大勢の人々

 これまでもイエスのもとにはたくさんの人々が詰めかけたことが書いていましたが、ここではその噂が広まり、非常に広範な地域に住んでいる他の人々も、イエスを求めて来ていたことが明らかにされています。7節の「非常に大勢の人々」と訳されていることばは、「多くの」という語と「おびただしい数の人やもの」を示すことばが重ねて使われており、数え切れぬほどの人の群れだったことが強調されています。7〜8節の地名を見ると、まず「ガリラヤ」ですが、ここはイエスがおられ、宣教の働きをしておられたパレスチナ北部地域です。次に、「ユダヤ」は南部の広い範囲を指します。「エルサレム」はユダヤの首都です。「イドマヤ」は死海の南側の地域です。「ヨルダンの川向う」とはヨルダン川の東側地域です。「ツロ、シドン」は北部で地中海に面した異邦人の住んでいる地域でした。これらの地名を通して言われていることは、東西南北のあちこちから人々が主のところに結集したということです。

神の国が近づいた

 このように広範囲から、おびただしい人の群れが、イエスのもとに集まって来ているこの情景を通して、この箇所は何を教えているのでしょうか。おそらく三つのことを示していると考えられます。第一に、これはイエスが宣べ伝えていた神の国の到来のしるしを示しています。宣教のことば第一声で、イエスは言われました。「時が満ち、神の国が近づいた」と(1:15)。この福音書を記したマルコ自身が「神の国」について、どこまでの啓示や預言理解を神から授けられていたのかはわかりませんが、聖書がその全体を通じて語っているところは、やがて主のもとに諸国民、諸言語の人々が一つに集められるということでした。
 4章に入ると、神の国についてのたとえをイエスが語っておられます(4:11,26,30)。今日の箇所の段階では、広範囲といってもパレスチナ地域に限定されていますが、それはほんの始まりに過ぎず、神の国はいつか驚くほどに膨張し、どんどんと広がり続け、やがて全世界を覆うようになる、というのです。神の国である主のご支配は、世界の隅々に至るとイエスは語られたのでした。他の聖書箇所からも引用しましょう。パウロのことばです。「その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるもの地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです」(エペソ1:9〜10)。また、このことの具体的で究極のイメージは、ヨハネの黙示録7章9〜12節にはっきりと記されています。


2,群衆が押し寄せた出来事は、人が持つ必要の大きさと深刻さ 

イエスを押しつぶしかねないほどの人々の必要

 群衆がイエスのところに押し寄せることが示している第二のことは、人々が持つ必要の大きさと、その苦しみの深刻さということです。10節には「病気に悩む人たち」とありますが、これは元のことばで言い表すと「鞭」です。人々は、皮の鞭で背中を打たれ続けているような、苦しく激しい痛みの中を通っていました。
 イエスのもとに、様々な人生の重荷を持って近づき、10節にあるように、「イエスにさわろうとして」人々は押し寄せてきました。9節の「群衆が押し寄せて来ないように」という表現は、ストレートに訳すと、「彼(イエス)を彼ら(群衆)が押しつぶさないために」となります。人々が持つ、苦悩、困難の大きさ、そして彼らのイエスに対する期待、願望、欲求が、破壊的な力でイエスさえも押しつぶさんとするほどであったということです。

大切なひとりの人間として対応されるイエス

 前の箇所3章1〜6節で、安息日に片手の萎えた人を癒やす話がありました。そこで繰り返されたことばは、「人(人間)」(ギリシア語でアンスローポス)でした(1,3,5節)。「彼」という代名詞を使わずに、マルコは「その人間」と書きました。イエスが、この片手の萎えた一人の人間を、まさに神に造られた大切な人間のひとりとして扱われたことが示唆されていました。イエスは彼を真ん中に立たせて、反対者たちが見張る中、堂々と癒されました。周りの人々は、別にいのちに別状のないことであるし、これまで片方の手が使えないで暮らして来たのだし、今急いで治さなくても良いのにと見ていたのではないでしょうか。しかし、イエスはその人が抱えていた片腕の苦しみというものが、この人の人生全体に及ぶ重大かつ深刻な痛みであり、一時であっても治療を猶予することなどできない苦悩の根源であると見て取られ、お癒やしになったのでした。その人のことを一人の人間として見られ、神の子イエスは向き合われたのでした。


3,群衆が押し寄せた出来事は、主の弟子になる招き

 今日の聖書箇所7〜12節は、実は次の13〜19節と合わせて読まれることが多い箇所です。13節から書かれていることは、十二弟子の任命です。おびただしい人々の深刻で緊急の必要、その期待に、イエスは真実にお応えになっていかれます。しかし、その堆積化したニーズの巨大さによって、神の子であってもイエスは押しつぶされてしまいかねないし、退かざるを得ないほどの圧迫を感じられました(7,9節)。また、イエスのお働きは悪霊追放や病の治療だけでなく、神のことばを語る必要もあり、十字架という地上において最も大事な任務がこれから控えているのです。ですから、イエスは最初からご自分一人だけで、神の国の宣教の働きをしないと決めておられました。主はともに神の国を広げていく、同労者、働き手をお立てになっていかれました。それが十二弟子の召命となります。11〜12節にあるような、イエスがどなたであるのかを、ただ頭の知識として持っていて、「神の子」であると叫ぶだけの汚れた霊どもとは違って、真実にイエスに従い、神に仕える弟子たちを、それは教会でもありますが、そうした主にある群れをこれから建て上げていかれることがこれから記されていきます。ですから、イエスのもとに押し迫る群衆のこれらの情景は、第三に、わたしとともに神の国を広げよう、とのイエスの招きのことばとして、現代の私たちにも語りかけています。あなたもわたしの弟子として仕えて、わたしに協力し、わたしを助けてくださいと言われる主イエスの御声は届いていますか。