「永遠の大祭司イエス」

ヘブル人への手紙 7:11ー28

礼拝メッセージ 2025.6.8 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,祭司の働きは、とりなしである

とりなしとは、かばうこと

 前回に続き、イエスさまこそが「私たちの永遠の祭司」であることを見ていきたいと思います。ここで改めて「祭司」という働きについて注目していきましょう。ヘブル人への手紙の著者はイエスさまが祭司であるということに強調点を置き、それをこの書全体にわたって詳細に述べていることがわかります。「祭司」、「祭司」と言って、祭司がどうして必要なのでしょうか。
 祭司がしている働きは、神の御前で、人々のために「とりなしをする」ことに尽きます。とりなしは、日頃あまり使われていない表現なので、別のことばで言い表したいと思います。それは「かばってくれること」と言い換えて良いでしょう。私たちがたとえ間違いや罪を犯したとしても、あるいは正しいことをしているのに他の人々から誤解され、悪い噂を流されたとしても、とりなしをする人がもしもそばにいてくれるなら、なんと心強いことでしょう。その人はあなたをかばってこう言うでしょう。「だいじょうぶ。私はあなたのことをよく知っているし、あなたの味方だ」と。そして、正しいさばきをなさる方の御前に行って、「神よ、私が献げるこのいけにえのゆえに、この人を赦し、きよめて、どうか受け入れてください」と、懇願してくれるのです。

とりなしとは、代わりに祈ること

 とりなしのもう一つのイメージは自分に代わって神にお祈りをしてくれることです。私はいろいろな方からお祈りを頼まれ、祈っています。もちろん、頼まれていない方々のことも祈っています。皆さまもそうだと思いますが、祈る時にはその人のことを心の中で思いながら、主にある幸いを得て欲しい、信仰が導かれ強められるように、守られるように、癒やされるように、回復していかれるようにと願い、それをことばにして神さまにお伝えします。
 旧約聖書の出エジプト記28章を見ると、大祭司の正装で着る祭服の胸当てには、十二のきれいな宝石がついていました。それがイスラエル十二部族を表していました。それはどの部族のどの人も神の御前で宝石のように貴重で大切な存在であるとの象徴でした。大祭司はイスラエルの民を全部背負い、彼らのことを思いながら、神の御前に出たのです。


2,新しい契約に基づく祭司職

 このように祭司という存在を考えると、当時の読者だけでなく、現代の私たちにも、この「祭司」という働きをしてくださる方を欲しているし、必要であることがわかっていただけると思います。この書が書かれた時代、紀元60年代後半には、まだエルサレムに神殿があり、祭司の働きをしている人が実際にいました。ですが、旧約聖書から続いて来たその律法に基づくあり方は、主イエスが来られたことで、すでにその役割を終えて、新しい「もっとすぐれた契約」(22節)がすでに始まっていたので、彼らはそこにしっかり目を向けるべきでした。
 23節にあるように、旧約時代からの祭司は、どんなに素晴らしい人であっても、いつかは死んでしまうという制約を抱えていました。「死ということがあるために、務めにいつまでもとどまることができず、大勢の者が祭司となった」のです。さらに、26節から28節にあるように、それまでの大祭司は「まず自分の罪のために」いけにえを献げる必要がありました(27節)。そのように律法によって定められた祭司職は「弱さを持つ人間たちを大祭司に立て」ました(28節)。したがって、これら律法による祭司職には限界が常にあり、不完全なものでしかなかったのです。けれども、旧約聖書でもう一つの祭司のことが預言されていたと著者は繰り返し語っています。それが「メルキゼデクの例に倣う祭司」です。ヘブル書は、ダビデが記したと思われる詩篇110篇4節を引用しました。「主は誓われた。思い直されることはない。『あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。』」。ここに後に来られることになった主イエスの永続する祭司職が、律法である創世記に暗示され、そしてダビデの時代に預言されていたことが述べられています。


3,永遠の大祭司イエスは救い続ける

もっと良いこと、救いにつながること

 この手紙の宛先の人々は、信仰が動揺していて、生き生きとした信仰に歩めていなかったのです。福音を知っているはずなのに、旧約律法に後戻りする人、疲れを覚えて教会に集わない人などが大勢いたのです。そういう読者たちのことを踏まえて、著者は先程の6章の警告のことばを発して、彼らに注意をしましたが、さらに続けて、こうも言いました。「だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。」(6:9)と。その「もっと良いこと、救いにつながること」とは何でしょうか。それがこの7章で言われている「永遠の大祭司イエス」というお方についてのことです。イエスさまが大祭司として、永遠にあなたがた一人ひとりのために、常にとりなしをし続けておられるということです。7章24節と25節を確認しましょう。「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります」。ここを詳しく観察すると、イエスさまが永遠の大祭司であることがなぜそんなに重要なことであるのかが見えてきます。

私たちは救われ続けている

 私たちは以前に、イエスさまを信じて救われたということを、そしてそれが今も有効なものと考えて、過去の救われたことの記憶にのみ、重きを置いて歩んでいるのかもしれません。それはそれでとても尊いことで素晴らしいことであり、私も同じです。けれども、実はこの聖書箇所が教えていることは、私たちは過去に一度救われただけではなく、今もずっと日々救われ続けている、そして将来も救われ続けていくという驚くべき真実です。この著者によれば、救いは常に現在進行形の出来事であって、イエスにつながる者は、赦され続けているということ、清められ続けているということ、守り続けられているということを示しています。なぜなら、大祭司イエスさまは永遠に生きていて、その絶えざるとりなしが御父の前で、今日もこの時間も献げられているからです。したがって、救いは過去のセピア色の淡い思い出なのではなく、今も常に新しくあり続けている大祭司イエスによる恵みなのです。あなたは救われただけではなく、今も救われ続けているのです。