コリント人への手紙 第一 9:1ー18
礼拝メッセージ 2016.7.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,福音を宣べ伝える者が、その働きから生活のささえを得るという原則について、パウロは述べています。
8章では、偶像にささげた肉を、食べるべきか否かが直接の問題として取り上げられていましたが、その問題に対する答えとして、私は肉を食べる権利を、あえて用いませんとパウロは述べていました。9章では、自分のことを例に語って、受けて当然の権利や自由を行使できることであっても、自分の意志で、あえて制限する生き方があることをパウロは語ります。
そのことの例証として、自分が経済的サポートをコリント教会から受けていないという事実を語るのです。非常に大胆な発言に見えますが、パウロとしてはどうしても言わなくてはならないと感じていたことだったのです。これらの一見厳しい表現は、ある意味、ショック療法のようなもので、コリント教会の彼ら一人一人に、福音の光に目覚めて欲しいという強い願いが込められていたと思います。
1−14節での直接の内容は、福音宣教のため、そして教会のために働く人たちは、教会から生活支援を受けるべきであることを明らかにしています。コリント書も教会宛の手紙ですから、教会の人たちに、大切な原則を、しかもそれは、パウロの現実の生活の中で苦闘して来たことであり、他の多くの主の働き人たちのことも知って、ここで公けにしたのだと思います。その苦しみが見えるかのような強い調子が、日本語で言えば「いいえ。確かにあなたは持っています」と答えるしかないような、疑問文で表しています。「いったい私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか」(4節)という投げかけです。
パウロがここで明言している原則は、もう明らかなように「福音を宣べ伝える者は、その働きから生活のささえ」(14節)を得なければならないということです。このことは、7節で一般社会の通例からまず語られます。「自分の費用で兵士なる者がいるか」や、「ぶどう園」の農夫、羊飼いが、その例として書かれています。8−13節では、旧約聖書の律法規定から、この原則を明らかにしました。「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」(9節)は、申命記25:4からです。誰でも、報酬を受ける望みをもって働くことは当然のこととしています。さらに14節では主イエスの命令から、主の働き人が生活していけるように経済支援することは当然のことであると語られています。おそらくルカの福音書10:7「働く者が報酬を受けるのは、当然だからです」という主イエスの御言葉からと推察されます。
それでは、コリント教会に対して、パウロは自分の生活費の支払いを訴えようとしていたかと言うと、このあとの文章の続きを見ると、実はそうではなかったことがわかります。パウロが知って欲しかったことは、彼に対して、あるいは他の働き人に対して、何も報酬を与えていないことを、教会が当たり前のことにしてはいけないことをここで伝えたのです。
その上、パウロが無報酬であることによって、彼の働きそのものを軽く見る人がいたとも考えられます。6節を見れば、パウロとバルナバだけが生活のささえとなるものを受けていなかったようです。でも他の人たちはそれを受けていました。支払いを受けていないパウロたちと、報酬を受けている人たちとを比較して、どうせ無報酬での働きだから、大したことはない、とその受けている金額の大小で、人の値うちをはかり、悪く言う人たちがいたようです。その見当違いな理解が、根本から間違っていることを、パウロはこのあとのところで、「福音」について語って、その誤りをただしています。
2,福音を宣べ伝える者として、パウロ個人が本来受けるべきものを受けない理由は、福音が無償で与えられたものであることを明らかにし、権利を用いない自由があることを示すためです。
15−18節では、パウロ個人のあり方を伝えて、与えられている権利をあえて用いていないことを明らかにします。そのことの理由として、福音を宣べ伝える者として、自分がその福音の精神に、より相応しく生きることを願ってのことであることを明らかにしています。12節から繰り返し出てくるのは、「福音」です。あるいは「福音を宣べ伝える」です。パウロがコリント教会から、当然の権利として受けて良い報酬を受けなかったのは、彼らが福音の本質を理解し、福音を信じて生きることや、福音を宣べ伝える姿勢がどういうものであるのかを教えるためだったのです。
ここでの「福音」は、キリストの十字架に表された神の恵みのことです。この偉大で絶大な神の恵みは、金銭の量や重さで量れるものでは全くありません。でも、福音は、神から無償で私たちに与えられたものです。しかし、無償(タダ)で与えられたからといって、神の恵みを軽んじ、神のなされた御業を安価なものと思うなら、福音が何もわかっていないことになります。イエスが話された「一万タラントの借りのあるしもべ」のたとえを思い出します(マタイ18:21−35)。王は一万タラントの借りのあるしもべを赦し、借金全額を免除しました。ところが、この赦されたしもべは百デナリの借りのあるしもべ仲間を赦さず、牢に入れました。それを知った王は怒り、彼を獄吏に引き渡しました。
福音は、それを信じて受け入れ、救いを受けることで終わってはいけないものです。一万タラント赦されたから、それで安心できて良かったということではないのです。パウロがこの聖書箇所で伝えていることは、福音を信じて生きることなのです。旧約聖書から始まった神の民イスラエルに預言され、導かれて来た神の約束、そして御子キリストの十字架により成就したこと、それは神が払われたとてつもない犠牲と愛でした。この素晴らしい恵みを受け取って歩む者は、その福音の精神、福音の内容に照らされて生きるのです。人間には、当然の自由と権利が与えられていることは確かに大事なことですが、聖書のメッセージは、それを越える福音的生き方を示します。それが言わば、権利を用いない自由なのです。