マルコの福音書 11:20-26
礼拝メッセージ 2021.8.22 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.祈りは神への信頼
エルサレムに到着したイエス様と弟子たちは、昼間はエルサレムで過ごし、夜はベタニヤで宿泊していたようです。この日も前日と同様、朝ベタニヤを出て、エルサレムに向かいました。その時に目にしたのが、枯れたいちじくの木でした。前日のイエス様の言葉を覚えていたペテロは、イエス様に報告をします(21節)。この時のペテロの感情については書かれていませんが、思わぬ出来事にとても驚いているように見えます。ペテロはそれまでイエス様の奇跡を数え切れないほど目にしてきていましたが、それでもやはり、予想外の出来事には驚きを隠せなかったのでしょう。
本日の聖書箇所には、イエス様の言葉どおりになったいちじくの木をペテロが見て、驚いたという出来事を受けて、「神を信じるということ」についての教訓が語られています。前提として、神を信じるということは、神に祈るということです。「神を信じているが、いっさい祈ることがない」のであれば、それは「神の存在を認めてはいるが、信頼してはいない」ということになります。神様への信頼には、祈りがあります。
2.疑わずに信じ切ること
イエス様が言われるには、神に祈りをささげるうえでの大切なポイントの第一は、「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる(23節)」ということです。具体的には、「祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるのです(24節)」と言います。
ここで例に出されている「山(23節)」は、最も動きにくいものの代表だと言えます。そして、この「山」は私たちにとって、願いや目標を達成するための妨げ・困難であると解釈することができます。
イエス様は「信じて疑わないこと」について教えてくださいました。しかし、私たちがまず理解しなければならないのは、そもそも「山を動かすことができる唯一の方法は、祈りである」ということかもしれません。もし山が動いて海に入ることができたのならば、それは神の業であるとしか言いようがないように、私たちが抱えている困難が神様にしか動かせないものであることを知らなくてはなりません。
そして、その祈りの中で重要なのはやはり、イエス様が言われた「心の中で疑わずに祈る」ということです。ヤコブの手紙1章6〜8節には、「少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です」とあります。私たちのうちのほとんどは、神を疑っているかどうかと問われたとしたら、「そんなことはない」と答えるかもしれません。しかし、「神が必ず解決してくださると確信しているのか?神が必ず癒してくださると確信しているのか?心のどこかで、祈りが聞かれたらラッキーだと思ってはいないか?」と尋ねられたとしたら、どうでしょうか。私たちは神に祈りながらも、自分たちの側で勝手に、神の応答に制限をかけてしまっていることはないでしょうか。そのような人は、二心のある人だと言えるかもしれません。イエス様は、いっさいの疑いを持たずに神を信じ切ることを願っておられます。
3.人を赦し、神との正しい関係に入る
イエス様は祈りにおいて第二に、「祈るために立ち上がるとき、だれかに対して恨んでいることがあるなら、赦しなさい(25節)」と教えておられます。「恨んでいる」とは、単に憎んでいる人のだけのことを指しません。私たちがだれかの悪いところや弱さを心の中で繰り返し数え続けるなら、それが周囲には正論だと認められる主張であったとしても、その人を恨んでいることになります。人との関係は、神との関係と切り離して考えることができません。
「そうすれば、天におられる父あなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます(25節)」とあるとおり、もし私たちが人を赦していないのにかみさまに祈りを聞いていただこうとするならば、それは神様の側からすれば虫の良すぎる話ではないでしょうか。私たちはまず神様との正しい関係に入らなくてはなりません。
イザヤ書ではこのように言われています。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。あなたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ(59章1・2節)」。
神様との正しい関係に入るとは、罪のない完全な人になるということではありません。それは自分の力では不可能なことです。ですから、自分の罪を繰り返し神様に言い表し、どうしても赦せない人のことをも神様に聞き続けていただくことを大切にしていきたいと思います。