ペテロの手紙 第一 1:3ー5
礼拝メッセージ 2020.1.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,新しく生まれたこと−神をほめたたえるために
なぜ神をほめたたえるのか
3節最初は「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように」ですが、原文最初のことばは「ほめたたえるべき」(ギリシア語ユーロゲーテス)です。ヒッポのアウグスティヌスの『告白録』冒頭に「あなたは偉大である、主よ。大いにほめたたえるべき」と始まっていますが、おそらく、この聖書箇所もそのことばを記すにあたり、想起された一つのところではないかと思います。ペテロはまず、何よりも最初に神をほめたたえたいと、その思いを表します。神、すなわち主イエス・キリストの父であるお方を、大いに称賛すべきであると告白し、賛美を捧げます。どうして賛美するのかと言うこと、その理由が続く文章の中で述べられます。それは一言で示せば、私たちが神のあわれみによって新しく生まれたからである、ということです。私たちが新しく生まれたから、あわれみ深い父なる神をほめたたえずにはおられないというのです。
新しく生まれた!
この書簡を読んでいくと、ペテロが新しく生まれたという霊的な事実に読者の目を向けようとしていることがわかります。例えば、1章8〜9節に「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです」と書いています。なぜ、イエスを愛しているのか、なぜ信じているのか、なぜ喜びがあるのか、それは救われているから、あるいは新しく生まれたからということです。あるいは、1章22節で「あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」と語っています。新しく生まれたゆえに兄弟愛を抱くようになりました。2章3節には「あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました」とあります。これらすべては、新生していることを実証する経験としての信仰を表しています。
したがって、この3〜5節で明らかにされていることの中心は、あなたがたは新しく生まれました、ということです。それを土台に、「なぜ」新しく生まれることができたのかと言えば、それは大きな神のあわれみのゆえであると言います。次に、新しく生まれたことで私たちが「どのように」生きることが可能となったのかと言えば、それは生ける希望を抱いて歩むことができるようにされたということです。そして第三に、新しく生まれたことで「結果」として私たちには天に蓄えられた資産が約束されているということです。
霊的な新しい誕生
それでは、新しく生まれるとは、どういうことでしょうか。新しく生まれると訳されたことば(アナゲンナオー)は、直訳的には「再び生まれる」で、聖書全体の中でこの1章3節と、23節(「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、…」)にしか出て来ません。類似する表現として、ヨハネの福音書3章のイエスとニコデモとの対話で「人は新しく生まれなければ…」(ゲンナオー・アノーセン)があります。「生まれる」ということば自体、日本語でも受身形でしか言い表せないことからわかるように、それは生まれた本人の努力やがんばりによるものではなく、生んだ方(すなわち神)によるものであるということです。また、「新しく」「再び」と頭にありますように、これは地上で人間として生まれ出ることではなく、霊的に新しく誕生することを示しています。新生や再生、ボーン・アゲインと呼ばれることです。私たちが万物の創造主である神を信じ、この方が自分の罪のために十字架にかかり、復活されたキリストの父であられると信じるなら、そのとき、私たちは新しく生まれます。でも、生んだ方には子が生まれたことは感じられても、生み出されたほうの子(私たち)には、通常それを意識したり感じたりすることはできません。神を心で信じたという事実だけが認識できることです。礼拝を捧げ、賛美を歌い、証しし、交わったりすることによって、新しく生まれた者であることをきっと実感できるでしょう。そして神をたたえることの喜びが意味あるものとなります。
2,新しく生まれたこと−生ける望みを持つため
生ける望みと死んだ望み
第二に、ペテロは希望について記しています。新しく生まれた人たちは生ける希望を抱くことができるようにされています。私たちは誰でも、何かの希望や喜びを期待して毎日を歩んでいると思います。また、何かの目標を心にもって努力することも同様でしょう。ですから、もし人生において何の希望や目的を持つことができなくなってしまうと、生きていく力が弱まってしまいます。ペテロの手紙第一が書かれた背景には、宛先の人たちが散らされ寄留しているという厳しい状況下に生きていたということ、その上、さまざまな試練に直面しているということがありました。たぶん彼らは苦難の中で、生きる力も、それを可能にする希望も見失ってしまいそうな状況だったのでしょう。ある人がここには「生ける望み」と書いているが、対照的に「死んだ望み」というものも存在するといいます。私たちはそれぞれの人生を歩む中で、多くの希望を持って歩んで来たと思いますが、その希望の中には挫折したり、失敗したりして叶うこともなく消えていったものがいくつもあったと思います。堆く積み上げられたそれら死んだ希望の残骸の上に今の自分の人生があると言っても良いかもしれません。でも、聖書は語ります。あなたがたが今まで抱いたが消え失せてしまったそのような残骸になるような「死んだ望み」ではなく、決して死なない、「生ける望み」が存在し、それは決して消えゆくことのないものですと語りかけています。
朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産
その「生ける望み」と並べ置かれている約束が、「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない」神による相続資産です。「天に蓄えられています」という通り、地上で歩む私たちには肉眼で確認することはできません。また、5節で「終わりの時に現されるように用意されている救い」と書いているように、この約束の完成はまだその時が来ておらず、未来のことです。しかし、確実なものです。新しく生まれたことの確信を持ち、それにより受けている恵みにしっかりと目を留めてともに歩みましょう。