ペテロの手紙 第一 1:10ー12
礼拝メッセージ 2020.1.26 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,「救い」とは何か
今回は「未来の人々のために語られたことば」というタイトルにしました。今の時代から言うと、二千年から三千年も前に日本から遠く離れた中東地域で、預言者と呼ばれる人々が空間も時間も超えて、私たちに届けたことばがありました。彼らの未来の人々へのことばは、「救い」についてのものでした。9節から「救い」ということばが出て来ます。「あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです」。そして10節に「この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました」とあります。10節から12節は、今告げ知らされてあなたがたが持っている「救い」が、どんなに素晴らしいものであるのかを伝えています。昔の預言者たちが何代にもわたって探求していたものがこの「救い」であったこと、また目には見えない霊的な存在者である御使いたちでさえも、はっきりと見たいものであったことが語られています。
「救い」というのは、一言で言い尽くせない大きな内容を持っていますが、あえて言うならば、神が人に与える恵みのわざ全般を指します。しかし中心的なことを要約して言うとすれば、罪のゆえに裁かれ、滅ぶほかない人間一人ひとりを神がそこから救い出すことを意味しています。罪、裁き、滅びからの「救い」というと、現代の私たちにはピンとこないかもしれませんが、聖書を学んでいくと、これらのことがどの時代の人にとっても、たいへん重要なことであることがわかってきます。ペテロの手紙第一では、この「救い」ということが別の書き方で3節から記されてきました。救いとは、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持たせることであると3節に書いています。4節では朽ちることのない資産を受け継ぐようなものと表現し、8節ではイエス・キリストとの深い人格的な信頼関係を持つこととされています。この聖書箇所を読んで「救い」ということを次のように表現できると私は思います。「たといすべてを失うようなことがあっても、これさえあれば大丈夫と言えるもの」であると。逆に言えば、「これが無ければ、たといすべてのものを持っていたとしても、安心して死ねないもの」と言い換えることもできるでしょう(参考;マルコ8:36ー37)。
2,預言者たちは「救い」を熱心に尋ね求めました
10節と11節では、旧約聖書を書き記し、その時代を生きて活動した預言者たちのことが書かれています。彼らの主要な目的は何であったのかと言うと、この「救い」を求めることでした。10節に「熱心に尋ね求め、細かく調べた」と書いています。また、11節でも「だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べた」とあり、ここでも「調べた」ということばが記されています。一番目の「熱心に尋ね求める」(エクゼ.テオ.)は、探し求める、調べるという意味です。二番目の「細かく調べる」(エクセラウナオー)は徹底的に探索する、丹念に調べるという意味です。三番目の「調べる」(エラウナオー)は探る、研究するという意味です。いずれも同じような意味のことばを重ねて使っています。同類のことばをこのように並べて使用したのは、旧約聖書の預言者たちというのは、それぞれの時代と生涯において、「救い」ということをただひたすら求め続け、人々にそれを説いたということを表現しているのです。
3,未来の人々のための「救い」のことば
預言者たちがその救いについて、一生懸命に探求し続ける中で、明らかに示されたことは、彼らが求めた「救い」、すなわち、おぼろげながら見出して、当時の人々に悔い改めを勧め、熱く語った神の救いのことばは、究極的には、新約聖書時代以降の人々のために必要なメッセージであったということでした。12節「彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。」ということです。つまり、彼らからすれば、その当時、さまざまな反対や迫害に直面する中で苦闘しながら刻んできた預言のことばの一つ一つが、彼らの目の前にいる人々を越えるものであったということです。彼らには想像もできないような遠い未来の時と国境を超えた人々のために語られることになったということです。彼らがそれを書き記すことが後世の人たちへの奉仕であったということです。そしてその「救い」は「御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています」(12節)とさえペテロは書いています。この「はっきり見たい」と訳されたことばは、何かを見ようとしてかがみ込むことを表しています。覗き込むと訳すこともできます。天使たちが自分の体を乗り出し、首を伸ばして、じっと視線を向けている姿をイメージしてください。天の世界のことは何でも知っているはずの御使いたちでさえ、自然とそうしたくなるようなものこそが、私たちが今得ることができる「救い」です。「彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知されたのです」(12節)。そうです。それが今、…私たちに告げ知された福音のメッセージなのです。
4,「救い」を与えるキリストの十字架
では、その「救い」は、どのようにして私たちがそれを得ることができるようになったのでしょうか。それが11節にある「キリストの苦難とそれに続く栄光」ということです。その詳しい内容は執筆者であるペテロ自らがこのあとに記しています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(2:22ー24)。ここにあるように「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた」のです。なぜ、キリストは私たちの罪を背負われて、十字架にかかられたのでしょうか。それはキリストが私たちを心から愛しておられるからです。キリストの十字架は身代わりの死でした。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです」(3:18)。遠い昔から私たちのために語り継げられた「救い」のことばを受け取りましょう。