「朗らかに生きる」

詩篇 39:1ー 13

礼拝メッセージ 2023.11.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,自分の心を固く閉ざしていた詩人(1〜3節)

 この詩篇は、あるひとりの人が苦しみ、葛藤する中で自分の人生について黙想し、生ける神をひたすら求めていったという、信仰の道筋を辿った魂の記録のように思えます。
 1〜3節で「私は〜する」、あるいは「〜した」という表現が繰り返されています。「私は言った」、「私は…気をつけよう」、「私は…口輪をはめておこう」、「私は…黙っていた」などです。4節に入るまでのこれらの箇所から見えることは、この人が一生懸命自分で頑張っていたということです。彼は、自分の心とその歩む道を、自らの力をもって必死に守っていました。
 この詩篇で何回か出てくることばですが、「黙る」、「沈黙する」ということが、最初に記されています。この3節までにおいて、この沈黙することが意味することは、彼がおのれの心閉ざし、誰の助けも借りずに孤独に歩んでいたということです。箴言18章1節に「自らを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべての知性と仲たがいする」とありますが、そういう生き方のことを表しているように感じます。
 彼は人とのコミュニケーションにおいても沈黙したようですが、生ける神に対する信仰においても沈黙をしていたようです。しかし、神は彼の心の中に働きかけをなさいました。彼の内側で押し留めておくことのできない何かが働き、彼の心と口とを大きく開かせ、その舌を解放していきました。「心は私のうちで熱くなり、うめきとともに、火が燃え上がった。そこで私は自分の舌で言った。」(3節)と記しています。ちょうど、預言者エレミヤが「主のことばは私の心のうちで、骨の中で閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません」(エレミヤ20:9)と告白したことに似ています。


2,永遠の神を見上げ、人生のはかなさに気づく詩人(4〜6節)

 詩人は口を開いて言いました。「主よ」と。神に対して自分の心を開き、その思いを向けて、神を自分の口で呼んだのです。それは彼の人生にとって、とてつもなく大きなことであったでしょう。「主」ということばは、真の神を示す「ヤハウェ」という御名です。苦しみ、葛藤の中で、大きな霊的一歩がここに踏み出されたのです。
 これは新約聖書で言えば、私たちがイエスを「主」と告白することと共通します。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。…『主の御名を呼び求める者はみな救われる』のです。」(ローマ10:9、13)と、使徒パウロが記したことと同様であると理解できます。
 けれども、ここで詩人は、神を見上げることによって、ただ喜びに満たされたのではありませんでした。むしろ、人生というものがいかに短く、はかないものであるのかを気づかせられたのです。「主よ、お知らせください。私の終わり、私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないかを、知ることができるように。ご覧ください。あなたは、私の日数を手幅ほどにされました。…人はみなしっかり立ってはいても、実に空しいかぎりです」(4〜5節)。
 その気づきは、神である主が永遠の神であるからこそ見えてくるものです。永遠である方の前に立たされて、自らの弱さや限界、小ささを認識することができたのです。イエス・キリストが偉大な主であることを悟ったペテロは、大漁となった御手の業を目の当たりにして、こう告白しました。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)。
 これは永遠なる神を黙想したモーセも同じでした。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは、労苦とわざわいです。瞬く間にときは過ぎ、私たちは飛び去ります。…どうか教えてください。自分の日を数えることを。」(詩篇90:10、12)。詩篇39篇6節に「私の日数を手幅ほどにされた」とあるこの「手幅」は、ヘブライ語で、長さの単位を表し、指を四本並べた長さを言うそうです。それは最も短い長さを指しています。しかも人生は、短いというだけではなく、空しくもあるということに詩人は気づき、告白しています。「人はみなしっかり立ってはいても、実に空しいかぎりです」(5節)と。直訳すると「実に、すべては空。すべての人はしっかり立っていても」となります。この「空しい」は、ヘブライ語で「息」を意味する「へベル」という語で、伝道者の書の冒頭と終わりに出て来る印象深い表現、「空」と同じ語です。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」(伝道1:2)。


3,人生の希望と目的は神にあることに気づく詩人(7〜11節)

 それでは、その短く空しい影のような人生に、いかなる意味があると言うのでしょうか。また何を目的に希望をもって生きることができるのでしょうか、詩人はここでその問いに自らはっきりと答えました。この詩篇の中心聖句である7節です。「主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」。それは地上にあるほかのどんなものでもなく、「主よ、あなたです」と告白しました。
 末期の肝臓癌であること知らされた鈴木正久牧師という方が、ピリピ書を読んで、パウロが自分の死を前にして、「キリスㇳの日」に向かって喜びに溢れて歩んでいる様子に励ましを受けました。病床でこう言われたそうです。「パウロは生涯の目標を自分が死ぬ時とは考えず、それを越えてキリストに出会う日、「キリストの日」であると言いました。それが本当の「明日」であり、輝かしい「明日」です。その「明日」があるから、「今日」という日が今まで以上に生き生きと私の前に現れました」と。


4,地上では旅人、寄留者であることに気づく詩人(12〜13節)

 最後に、詩篇作者は、信仰によって、新たな自己理解に向かいます。それが12節の「私は、あなたとともにいる旅人、すべての先祖のように、寄留の者なのです」という告白です。これは、ヘブル人への手紙にも語られています。「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(ヘブル11:13)。ヘブル書もこの詩篇も、私たちは地上では「永住者」ではなく、「一時的滞在者」のようなものであると言います。それは、この地上生涯ですべてが終わるのではない、という確信です。鈴木牧師が言われるように、それは「キリストの日」という「明日」を持っているということです。地上世界だけに縛られることのない自由な「信仰の眼を持つ」ということがここに見られます。
 だから、この詩篇が最後に結んでいるように、「朗らかになれる」ということです。この「朗らかになる」ということばは、「明るくふるまう」、「微笑みを浮かべる」という意味です。言い方を変えれば、どんなときにもユーモアの心を持って私たちは生きていけるということです。