「最高の願い」

詩篇 27:1ー14

礼拝メッセージ 2023.6.18 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,戦いの中で恐れに打ち勝つ(1〜3節)

主は私の光

 「主は私の光、私の救い」と始まるこの詩篇は、戦争や命が危険にさらされているような危機的状況下で祈られたことばです。「私の肉を食らおうと…私に襲いかかった」(2節)、「私に対して陣営が張られても」(3節)、「私に対して戦いが起こっても」(同節)など、緊迫した表現が読み取れます。詩人がダビデであれ、誰であれ、この作者自身が現実の激しい苦難や危険に囲まれていたのです。冒頭のことば「主は私の光」(ラテン語でDominus illuminatio mea)は英国オックスフォード大学の標語として掲げられているそうですが、このことばも単に何かの光明を見出す、発見するというようなことではなく、真っ暗闇の状態に置かれて不安や恐れの感情しか持つことができないような苦しみの中で、詩篇作者がひたすら神を見上げて、自分の魂に向かって激励するかのように発したことばであったと思われます。

だれを私は恐れよう

 詩人はそこで言います。「だれを私は恐れよう」、「だれを私は怖がろう」(1節)と大胆にも述べます。敵対者たちがおり、彼らが陣を張り、絶えず攻撃を仕掛けてくるのです。作者に向かって危険が迫っているのですから、本当は怖くないはずはないのです。「だれを私は恐れよう」という表現は、ヘブル人への手紙で「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか」(ヘブル13:6)と少しことばを変えて引用されています。また、繰り返される「だれを私は恐れよう」は、ローマ人への手紙の中でパウロが「だれが私たちに敵対できるでしょう」、「だれが、神に選ばれた者を訴えるのですか」、「だれが、私たちを罪ありとするのですか」、「だれが、私たちをキリスの愛から引き離すのですか」と畳み掛けるように綴った文章を思い起こさせます(ローマ8:31〜37)。
 その自然な答えは「(敵対できる者は)だれひとりもいない」ということです。「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」(ローマ8:37)と書いています。パウロの言うとおり、「私たちを愛してくださった方によって」という主なる神、主イエスが私たちの側におられることのゆえに、実際にそうなのです。私たち自身のうちに何かがあるわけではなく、私たちを守り、匿いたもう方が主であるからです。


2,戦いの中で礼拝する(4〜6節)

 4節からは、「主の家」、「宮」、「幕屋」ということばがあり、主を礼拝することを詩人が渇望し、強く願っていることが記されています。1〜3節に記されていた、戦いや苦難の中で、詩人が明確に悟ったことは、何を第一として生きるべきかということでした。「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。」(4節)と。平穏な日常においては、何が大切なのか、真に価値あることは何か、なすべき重要な務めは何であるのかなど、諸事に紛れ、考えることをしません。しかし、非常時や、危機的事態になると、私たちはなくてはならぬ「一つのこと」が何であるのかを考え始め、やがてそれに気づくこともあるでしょう。
 詩篇記者は「一つのこと」を切望していました。それは「主の家に住むこと」です(4節)。「私のいのちの日の限り、主の家に住むこと」と言いました。これは詩篇23篇の最後のことばによく似ています。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追って来るでしょう。私はいつまでも、主の家に住まいます。」(詩篇23:6)。一言で表現するなら、それは神殿や幕屋において、主を礼拝することである、と言って良いでしょう。主イエスが親しくしていたマルタ、マリア、ラザロの家で、イエスの膝下でお話しを聞いていたマリアを見て、もてなしに忙しくしているマルタがいらいらしたとき、主は言われました。「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。」(ルカ10:41〜42)。


3,戦いの中で神の臨在を求める(7〜14節)

御顔を慕い求めます

 さて、次に7節以降を見ていくと、8節と9節に「顔」ということばが繰り返されていることがわかります。「あなたに代わって、私の心は言います。『わたしの顔を慕い求めよ』と。主よ、あなたの御顔を私は慕い求めます。どうか、御顔を私に隠さないでください。」(8〜9節)。4節から6節の神殿や幕屋での礼拝と密接に繋がることですが、この詩篇後半で作者が語る強い願いとメッセージは、「主の御顔を慕い求めること」つまり、神のご臨在、プレゼンスを求めるということでした。「主がともにおられる」ことです(マタイ1:23)。これは、礼拝の場所にいることに限定されず、どこに自分がいても、ということです。どこにあっても、特に戦場にあったとしても、神との絶えざる交わりを経験し、その恵みを味わうことを詩人は大いに求め、そしてそれを事実持っていることをこの詩の読者に証しをしているのです。
 兵士として戦場にあったキリスト者が、野営の簡易トイレの中で祈ったということを聞いたことがあります。アーネスト・ゴードン著の『クワイ河収容所』には、彼が捕虜となっているとき、竹藪の中に捕虜が密かに集まって、ともにみことばを読んだと記されていました。私たちはどこに置かれたとしても、「主の御顔を慕い求める」のです。それは主が「私の光」であり、「私の救い」だからです。

父母が私を見捨てようとも

 印象的な表現が10節にあります。「私の父、私の母が私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださいます」。悲しく残念なことですが、実の親でさえも、子どものことを見放してしまうことがあるし、見捨てられてしまった人も実際におられると思います。10節は直訳すれば、「私の父と私の母が私を棄てた。しかし、主は私を取り上げる」であり、「見捨てるときは」や「見捨てようとも」という仮定ではなく、作者自身の苦しい過去の経験を告白しているのかもしれません。
 イザヤ書でこう語られています。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」(イザヤ49:15)。そんな絶対的な永遠の愛を持ったお方と交わりを持つということ、それが「御顔を慕い求める」、神のプレゼンスを味わうことなのです。
 神との交わりを持ち、経験することでしか、最後の14節のことばは心の中に生じてこないものです。「待ち望め、主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め、主を。」(14節)。この「強くあれ、雄々しくあれ」は、かつてモーセからヨシュアに語られ(申命記31:7)、次にヨシュアが主から直接受けたことばでした(ヨシュア1:6、9、18)。今、ここにダビデもしくはそれに連なる人がこの主からの同じ激励のことばを受けています。主は、今ここにいる私たちにも同様に語りかけています。