「暗やみに立つ十字架」

ルカの福音書 23:44ー56

礼拝メッセージ 2016.3.20 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,全地が暗くなったことが暗示していること(44−46節)

 イエスが十字架につけられた時間は、福音書の記録によると、午前9時で(マルコ15:25)、そして午後3時頃に息を引き取られたこと(44節)が書いてあるので、約6時間の出来事であったことがわかります。そして、この十字架の後半3時間は、不思議なことに「全地が暗くなった」のです。今日のタイトルにしましたように、暗やみの中に十字架は立っていたのです。この箇所の示す、人々の嘲りや、百人隊長のセリフは、暗やみの中で語られたことなのです。
 この「全地が暗くなった」というのは、象徴的な意味を持っています。これが過越祭の時期に起こったことが書かれていますので、日蝕ではなかったようです。気象的に何が起こったのかの詳細は全く不明ですが、おそらく特別な暗やみでした。
 イエスご自身が暗やみの中に置かれ、暗やみの中で苦しみを味わい、暗やみの中で死んでいかれたことを思うと、これは大きな意味ある天からのメッセージが暗示されているように思えます。マタイ4:16を見ると、「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」とあります。昔も今も、私たち人間は多くの場合、孤独や、不安、恐れを抱えて生きています。それゆえ、イエスは、暗やみをその身を持って体験し、その苦痛や悲しみを真に味わい尽くされたということです。そういうイエスだから、あなたを知っていると語っておられるのではないでしょうか。あなたがどこにおり、あなたがどんな痛みをもっているか、その暗やみがいかに深いものか、わたしはあなたを知っているし、あなたの苦しみを知っている、と言う声が心のうちに聞こえませんか。
 また、暗やみは、神殿の幕が裂けたことと合わせて、世がさばかれたことを象徴するものでした。出エジプト記にあるエジプトにもたらされた十の災いの中にも、全地が暗やみに覆われるというさばきがありました(出エジプト10:21−23)。45節では「太陽が光を失い」とあり、旧約預言者アモスの言葉を思い起こさせます。「その日には、― 神である主の御告げ ― わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭を喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする」(アモス8:9−10)。
 神殿の幕が裂かれたことも、神殿礼拝を司る当時の宗教体制へのさばきの現れでした。旧約聖書ですでに語られていたことは、人間の神への不従順と罪のゆえに、神は全地をさばかれるということでした。十字架の出来事は、この世界が神にさばかれなければならないこと、そしてすでにさばかれたものであることを明らかにしているのです。神の御子であるイエスを十字架につけてさばかなければ、決して解決できない罪が人間には、そして世界にはあるのです。逆に言えば、十字架こそが人に真の救いと回復をもたらす唯一の道なのです。


2,イエスの死に向き合った人たちの姿が教えていること(47−56節)

 十字架のまわりには数多くの人たちがいました。そしてそれぞれにいろいろな反応を示していたことが、福音書には記されています。今日の箇所では、百人隊長、イエスの知人たちと女たち、アリマタヤのヨセフ等の人々です。
 百人隊長は、はっきりと言いました。「ほんとうに、この人は正しい方であった」と。百人隊長が、イエスについてどれだけのことを知っていたか、またイエスを神の御子として信じたのか、など詳しいことはまったくわかりません。しかし、明らかなことは、少なくとも、彼(イエス)は犯罪人ではない、だから自らの罪のゆえに刑罰を受けた人ではない、ということです。彼のセリフを直訳すると「ほんとうに、この人間は義人でした」となります。「アンスローポス」(ギリシア語で「人間」の意味)という語を用いています。ですから、人間として正しいものと独白したのです。しかしそれ以上の告白であると言うこともできます。ユダヤ人から見ての異邦人で、その処刑に立ち会った人の証言として、正しい人と言って、神をほめたたえたところに、単なる無罪であったことや、冤罪であったことを超えて、全く義であられる方としてのイエスを表しています。
 サンヘドリンの議員であったアリマタヤのヨセフや、イエスに従っていた女たちの姿に、さらに一歩踏み込んだイエスに対する証しを見ることができます。それは、言葉ではなく、行動を通してです。ヨセフはイエスのご遺体の下げ渡しを求め、そして引き取ってお墓に葬りました。当時、十字架刑に処せられたような罪人の死体は、ゴミのように焼かれて処分されたり、ほうっておくと、犬や空の鳥に引き裂かれたりしたようです。ところが、イエスの場合は、丁重な葬りでした。これは旧約聖書を見るとわかりますが、どのように葬られるか、どこに埋葬されるかは、その人自身の名誉にかかわる大切なことでした。
 イエスを納めるお墓は、「まだだれも葬ったことのない、岩に掘られた墓」でした。新しいお墓に処刑された人が納められるということは到底考えられないことだったと思います。しかも、「亜麻布」(別訳では「上等の布」)に包んで、香料や香油まで使われたのです。これだけの埋葬を行うのは、普通の人でもされなかったことでしょう。むしろこれは王としての葬りです(参照 Ⅱ歴代16:14,21:19)。37,38節で「ユダヤ人の王」の表現があり、42節では「御国の位にお着きになるとき」と言われており、ヨセフは「神の国を待ち望んで」いる人でした。丁重な葬りをし、新しいお墓を捧げ、香油を注ごうとした、これらの人たちは、情け深い同情心でこのことをしたのではなく、神の国の主人、王としてイエスに仕えていたのです。十字架につけられた、この正しい、王であるお方に、あなたも仕えて歩みませんか。