「新しい歌を主に歌え」

詩篇 33:1-7

礼拝メッセージ 2024.9.29 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1,私たちの素晴らしい主を喜び歌え

 詩篇は神様への祈りであり、応答であると言えます。しかし、それは神様に対する人間の応答であると同時に、神様から賜った「聖書」であるという意味においては「神のことば」です。旧約時代の詩篇作者たちのことばを通して、神様を礼拝することの喜びと豊かさを神様ご自身が私たちに語ってくださっています。
 今回は、詩篇33篇の前半から「新しい歌を主に歌う」ことの幸いを受け取ってまいりましょう。そして、私たちも日々、主に新しい歌を歌い続ける信仰者でありたいと願います。

 33篇は「喜び」「感謝」「賛美」「歌」「叫び」等のあらゆる表現を用いて、主を礼拝しています。4節以降は、礼拝の対象である主のご性質が表されています。“真っ直ぐな主のことば”は、6節以降で天地を創造された主のことばと結び付けられています。また、“ことごとく真実なみわざ”は、13節以下の主のご摂理に結び付けられます。主は天地を創られた偉大な力あるお方です。しかし、私たちの主は真の「神」であられるうえに、正義と公正を愛される真実なお方です。詩篇の作者は、この両面において主を喜びほめたたえています。私たちの主も、ここで礼拝されている主と同一のお方です。私たちも、今日も主のことばとみわざに心を留めて、礼拝をおささげしましょう。


2, 竪琴・十弦の琴に合わせて

 詩篇の作者は「竪琴に合わせて」「十弦の琴に合わせて」、主に感謝し、ほめ歌を歌えと言っています。「十弦の琴」は「竪琴」よりやや大きめのものと言われています。特に弦の数のことを言ったものではないようです。また、ダビデが弾じたもの(Ⅰサムエル16:16)や、捕囚の民がバビロンの柳にかけたものは小型であったと言われています(137篇)。
 今日の日本の多くの教会では、竪琴は用いられていません。ただ、礼拝で用いられる楽器については、これまでの教会の歴史の中で様々な議論があったようです。今では馴染みのあるギターも、当初は異教的・世俗的な音楽に用いられることが一般的だったため、礼拝での使用が好ましく思われなかった時代もありました。
 しかし、このような議論は旧約聖書時代も例外ではなかったことが考えられます。聖書の中で、音楽に関連する記事が最初に出てくるのは創世記4章です。殺人を犯したカインの末裔レメクの3人の息子たちは①天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖、②竪琴と笛を奏でるすべての者の先祖(ユバル)、③青銅と鉄のあらゆる道具を作る者であったと書かれています。音楽、すなわち芸術の領域も、他の2つが担った人類の生活の進歩に劣らない神様からの恩恵であると言えます。ただ、それは「神なき芸術家」でもありました。ノアの洪水で滅びたであろうユバルの子孫は、世俗的・異教的なことをもって人々に奉仕していたと考えられます。
 詩篇33篇が歌われた時代も、楽器は異教的なものとの強い結びつきがありました。詩篇に登場する「竪琴」「十弦の琴」、その他「笛」「タンバリン」などは、主を礼拝するために作られた純粋で「聖書的」とも言える楽器だったわけではないということです。言い換えると、主を礼拝するには、どの楽器がふさわしくて、どの楽器がふさわしくないのか、ということを聖書は語っていないということです。当時、一般的に使われていた(時に異教崇拝のために)楽器を用いて、詩篇作者は「主を喜び歌え」、「このお方こそが、真の主なのだ」と信仰を告白しているのです。


3,新しい歌を主に歌え

 「新しい歌を主に歌え(3節)」。「新しく作曲した歌を」というより(広い意味ではそれも含まれるかもしれませんが)、「新しい気持ちで、主の恵みを受け取って歌え」ということでしょう。
 神様は聖書に、楽譜を残されませんでした。もしそうであったら、私たちは「いかに聖書時代の賛美を完全に再現するか」ということに心を奪われていたことでしょう。また、それが絶対化されて、聖なるものとなっていたことでしょう。音楽文化の異なる地域への宣教も難しくなったに違いありません。しかし、神様は賛美の言葉だけをいくつか私たちに残し、表現においては自由さを持たせてくださいました。ですから、私たちは表現の豊かさを楽しみながら、今日も新しい気持ちで主の恵みを喜び歌いましょう。